小関竜也について

名前 小関竜也
生年月日 1976年7月24日
日本
出身 栃木県佐野市
プロフィール 平成7年ドラフト2位で西武に入団。高校では投手、プロに入って外野手に軽向。10年入団4年目にしてパリーグ新人王に輝く。左投左打、178センチ、73キロ

高校時代はエースで四番も、甲子園には届かず

小関竜也が生まれ育ったのは栃木県佐野市。佐野ラーメンと言うご当地ラーメンで知られる街ですが、小関の実家も佐野ラーメンで知られる超有名店の「万里」。飲食店の息子として育った小関は間もなく野球を始めると持ち前の運動神経を駆使してすぐに素質を現していきました。

地肩が強かった小関はすぐに投手として起用されるようになり、栃木県内では知らないものがいないくらいの好投手に国学院栃木高校に進学してもエース投手として活躍していました。ちなみに小関と同級生には後に千葉ロッテマリーンズで活躍する渡辺俊介が在籍するという豪華な顔ぶれでした。

その渡辺を控え投手に追いやるほど、小関は本格派の投手として知られていました。さらにバッティングでも優れていたため、この頃の小関の役どころはエースで4番。さらに主将まで務めるというマルチな才能を発揮していました。ところが、高校時代の小関は全国的には無名の存在に。と言うのも夏の県大会で最後まで勝ち進むことがなかったため、甲子園大会には無縁のまま3年間を終えてしまいました。

高校での無念を大学で晴らそうと考えていた小関でしたが、進学先として選んだのは六大学リーグのスターを輩出してきた慶応大学。しかし、推薦入試を受けた結果まさかの不合格。大学への進路が絶たれてしまい、小関は今後どうするのかが焦点となりましたが、そんな小関の素質を見抜いていたのがプロ野球チームの西武ライオンズ。94年のドラフト会議にて小関を2位で指名して入団にこぎづけます。

ちなみにこの年の西武ライオンズは森祇晶から東尾修へ監督が変わって最初のドラフト。投手出身の東尾らしく、小関を含む6人中4人が投手という内訳。その中でも唯一の高校卒だった小関に対し、将来性を加味して並々ならぬ期待をかけていたことがよくわかります。

4年目にして新人王を獲得

背番号51を与えられた小関竜也。投手として期待されていましたが、入団早々に野手へとコンバート。背番号や字型の強い投手と言うプロフィールも相まって「西武のイチロー」になることを期待されましたが、当時の西武の外野陣はかなりの鉄壁。センターに前年の盗塁王である佐々木誠、ライトには元メジャーリーガーのダリン・ジャクソン、そしてレフトには売り出し中のスラッガー、垣内哲也が入るという陣容で、とてもではありませんが高校卒の選手が付け入る隙はありませんでした。

投手から転向したばかりということもあって、1年目の小関は二軍で徹底的にバッティング練習、さらにプロとしての体力をつけるためのトレーニングと言う具合に鍛えられ、結局一軍での出場はゼロ。2年目の96年はシーズン最終盤の10月に一軍昇格を果たしたものの、出場はこの1試合のみ。3年目も同じような形で1試合のみ出場にとどまります。

高校卒のドラフト指名選手のデッドラインと言われているのが5年目。3年目までに芽が出ないとかなりの危険とされていますが、その理論でいえば小関は危険水域に達するレベルまで来ていました。しかし、小関が4年目を迎える98年の西武ライオンズは外野の層が薄め。俊足好打の小関が起用される場面が増えたのか、この年は一気に104試合に出場するという大ブレイクを果たします。規定打席にこそ届きませんでしたが、堅実な守備に走攻守が揃ったプレースタイルがチームの勝利に貢献し、なんと西武は終盤に逆転して優勝を果たしました。この躍進には小関の活躍が必要不可欠だったとして、この年のシーズンオフ、小関は新人王に選出されます。

元来、新人選手に渡すべきタイトルである新人王ですが、支配下登録を初めて登録されてから5年以内で、投手なら30イニング以内、野手なら60打席以内の選手であれば2年目以降の選手でも資格が与えられています。この年を迎えるまでの小関はこれまで2試合、1打席のみの出場だった小関にはこのチャンスが与えられていた上、他の新人王候補の選手が軒並み今一つの成績に終わったことから、4年目の小関に新人王のタイトルが与えられました。ちなみに4年目の選手が獲得したのはパリーグ史上初のこと。また、野手での新人王選手はこの年の小関を最後にパリーグでは2016年オフ現在、18年間も現れていません。

打率3割を記録も、その後急速に衰える

まさかの新人王獲得となった小関竜也ですが、この年以降も外野のレギュラーに定着。2年目の99年には前年届かなかった規定打席に到達。打率こそ2割6分6厘と前年よりも2分近く下げましたが、32犠打が物語るように2番打者として的確に塁を進める活躍を見せて、チームの勝利に貢献しました。

それまで鉄壁だった小関の守備でしたが、3年目の00年の9月にとうとう初エラーを記録。これによりデビュー以来の無失策記録は途切れてしまいましたが、この時の無失策記録658はパリーグの外野手として歴代最長(当時)。華麗な守備でチームに幾度となく貢献していきました。

長らく守備の人と言うイメージが強かった小関が変わったのは02年。この年に自身はつとなる打率3割越えを果たすと、松井稼頭央との1番2番コンビとして定着。2度目となるリーグ優勝に大きく貢献しました。さらに翌03年も打率3割こそ逃しましたが、犠打が2年連続リーグトップというつなぎ役としてチームにはなくてはならない存在になりました。

ところが監督が伊東勤に替わった04年、小関は外野手同士のレギュラー競争に敗北。レギュラーの座を奪われると90試合の出場にとどまり、規定打席到達を逃してしまいます。主将となった05年はさらに出場機会を半減させて47試合にとどまり、さらに高額の減俸が言い渡されることが濃厚となると、小関はメジャーリーグ挑戦を決意して渡米します。

ちなみにこの時、西武の伊東監督は小関をまだまだ起用する方針だったため、勝手に自由契約にして海外に行かせてしまったフロントサイドと衝突するという事態に。こんなところからも小関がいかにチームに貢献していたかがわかります。

メジャー移籍が叶わず、巨人・横浜へ

誰もが驚くメジャーリーグへの挑戦を決めた小関竜也。持ち前の守備や走塁面を買ったミルウォーキー・ブリュワーズと2月にマイナー契約を結びましたが、開幕早々の4月にマイナー選手の仲での外国人枠が埋まっていたという事実が発覚。本来ならばあり得ないくらいの失態ですが、小関を残すことはありませんでした。結果的に小関はメジャーを目指すのではなく日本に帰国して国内リーグでのプレーを希望します。

小関の窮状を救ったのは巨人。テスト入団で小関を迎え入れますが、小関自身もコンディションが整っていなかったのか、6月のロッテ戦では一塁走者としてプレーしていた小関が李承燁の本塁打でダイヤモンドを回っている時に三塁ベースを踏み忘れているという判定を受けてアウトに。これでミソが付いた小関はこの年、故障者続出で選手層が薄くなっていたチーム状況にもかかわらず、わずか56試合の出場にとどまりました。翌07年には若手の台頭、高橋由伸の復活らが重なったためか、5試合の出場にとどまり、戦力外通告を受けることに。

翌08年には横浜ベイスターズへと移籍した小関ですが、ここでも49試合の出場に終わり、この年を最後に日本球界から姿を消しました。

ところが、メジャーの夢をあきらめきれなかったのか、09年にはコロラド・ロッキーズのテストを受けましたが、ここでも不合格。そして間もなく現役を引退。現在では巨人の二軍打撃コーチとして奮闘しています。

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