名前 | 水沼貴史(ミズヌマタカシ) |
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生年月日 | 1960年5月28日 |
国 | 日本 |
出身 | 埼玉県浦和市 |
プロフィール | 小学生時入団した本太少年団で全国優勝を飾ると、本太中学3年で全国中学校サッカー大会でも優勝。
浦和南高時代、高校サッカー選手権で優勝と、3位の成績をおさめ、ユースの代表に。法政大学に進み、ワールドユースに出場、国内では総理大臣杯、関東リーグで優勝を経験。 1983年日産自動車入り。さらに日産マリノスでミッドフィルダーとして活躍。日本代表にも選ばれ、W杯や五輪予選に出場。1986年には、歴代最多の17アシストでアシスト王、同年から3年連続で日本サッカーリーグベストイレブン受賞。 1993年のJリーグ開幕戦にもフル出場。Jリーグ岩塩に26試合出場するも、その後出場試合数を減らして、1995年の開幕戦に途中出場して現役引退。 引退後は、評論家、解説者に転身し、TBS「スーパーサッカー」のコメンテーターなどを務める。2004年にS級ライセンス取得。2003年から法政大学コーチ就任。2006年、横浜F・マリノスコーチに就任すると、8月から岡田武史の辞任により、シーズン終了まで監督就任。2007年に再びコーチを務めて同年で退任。 国際Aマッチ 32試合出場7得点。浦和南高卒、法政大学卒。 |
小・中・高・大とすべての年代において全国大会制覇を経験
水沼貴史は、1960年、サッカーが盛んな埼玉県浦和市に生まれます。そして小学生時代から、輝かしい成果を上げていきました。本太少年団で全日本少年サッカー大会を制すと、本太中学時代にも第6回全国中学校サッカー大会で優勝して全国トップを勝ち取ります。1976年に浦和南高校に進学すると、1年生からレギュラーを奪い、同年の第55回全国高等学校サッカー選手権大会に出場しました。浦和南高校は前年も選手権制覇しており連覇を目指して次々と勝ち上がります。決勝では静岡学園との死闘となりましたが、5-4で下して2年連続3度目の全国制覇を成し遂げました。
卒業後に法政大学へ進学すると、日本ユース代表に選出されて、FIFAワールドユース選手権に出場します。日本は2分1敗でグループ予選敗退となりましたが、水沼はメキシコ戦で日本唯一の得点を記録しました。その後も、在学中に総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントを2度制するなど、小学生時代から全ての年代で全国制覇を達成します。最終年度では関東2部での戦いとなりましたが、自らのゴールで1部復帰を決めて大学生活を締めくくりました。
日産では攻撃の中心を担い、2年連続3冠など黄金時代を牽引
1983年、加茂周監督が率いる日産自動車サッカー部(現在の横浜F・マリノス)へ入団します。3年前には、2年連続でJSL1部最下位と低迷期にありましたが、金田喜稔、木村和司らホープが入団すると一気にチームが変わり1部返り咲きを果たしていました。そして水沼貴史らの入団で、さらに戦力が安定します。水沼は攻撃的MFとして即レギュラーの座を獲得して、同年度の天皇杯優勝にも大きく貢献しました。
1984年には、日本A代表デビューも飾り、アウェイでの韓国戦初勝利につながる歴史的なゴールを記録するなど大きく飛躍します。日産でも主力として活躍し、2年連続JSL1部2位、そして1985年には再び天皇杯も制しました。1986-1987年シーズンでは、歴代最多の17アシストでアシスト王に輝くなど、同年から3年連続で日本サッカーリーグベストイレブンに輝きます。まさに脂が乗ったチームは最強となり、1988-89年シーズンからは、2年連続でリーグ戦、JSLカップ、天皇杯の3冠を達成しました。
水沼は、日本屈指のドリブラーとして代表選出も常連となります。しかし、当時のチームは世界から見るとまだまだレベルは低く、W杯予選にも2度(1986年、1990年)出場しましたが、本大会出場を逃しました。
Jリーグ開幕戦に名を連ね、マリノス歴史的1勝の立役者となる
日産自動車と読売クラブは、日本サッカーリーグの黄金カードといわれ、互いにしのぎを削りました。そして、1993年にJリーグが開幕して、空前のサッカーブームを迎えます。同年5月、日産は横浜マリノス、読売はヴェルディ川崎とチーム名をあらため、両者によるJリーグ開幕戦が行われました。水沼貴史は当然のように先発メンバーに入りフル出場します。1-1の後半、自らが放ったシュートのこぼれ球をディアスが押し込むと、それが決勝点となって歴史的な試合に勝利しました。
同年は26試合に出場して3ゴールを記録します。Jリーグ初年度からライバルのヴェルディ川崎が2年連続で総合優勝する中、マリノスは4位、6位と期待を裏切りました。水沼も年齢から来る衰えを隠せなくなり、2年目は全44試合中の15試合の出場に留まります。そして、Jリーグ3年目の1995年、開幕戦に途中出場した試合を最後に、現役を退きました。するとマリノスイレブンは奮起し、同年の1stシリーズで初優勝を成し遂げます。2ndステージは3位でしたが、チャンピオンシップでヴェルディを下して、初の年間王者を勝ち取り、水沼の引退に花を添えました。
サッカー解説者に転身すると、多くのテレビ、ラジオ番組に出演
引退後は、解説者に転身してテレビへの露出を増やします。TBS「スーパーサッカー」では1996年から約8年にわたってコメンテーターとして活躍しました。その他、「ニュースの森」におけるサッカーコーナーを始め、テレビ、ラジオの解説者として多く起用されます。こうした生活を続けながらも、2004年には監督就任に必要なS級ライセンスも取得していました。
3ヶ月という短い期間、横浜F・マリノス監督として指揮を振るう
一方、指導者としての活動も開始します。2003年からは母校法政大学のコーチを3年務めると、2006年からは、古巣横浜F・マリノスのコーチに就任しました。当時、元日本代表監督の岡田武史が4年目体制を迎えていましたが、低迷が続き8月に監督を辞任します。そこで急遽、水沼貴史に白羽の矢が立ち後任監督に就任しました。しかし、突如の就任は荷が重く、J1残留を何とか成し遂げることには成功しましたが、監督はショートリリーフに終わります。2007年からは、再びコーチの座に戻り、同年で退任しました。
その後は、再び法政大学のコーチに就任、さらには解説者の活動に精を出しています。長男・宏太が、父の背中を追ってJリーガーとなり、同じく横浜F・マリノスに入団したのもちょうどこの頃のことでした。