名前 | 坂田大輔(サカタダイスケ) |
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生年月日 | 1983年1月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県横浜市 |
プロフィール | 幼稚園時代からサッカーを始める。横浜Fユース、横浜ユースを経て、2000年のクラブユース選手権に優勝してMVP獲得。
2001年横浜Fマリノスに入団。同年8月対柏レイソル戦でJリーグ初ゴール。2002年アジアユース選手権準優勝、2003年FIFAワールドユース選手権ベスト8にスーパーサブとして貢献。同大会は4得点で日本人初の得点王を獲得。2003-2004年は、マリノスの2年連続年間王者にFWとして貢献。 2006年、日本A代表デビュー。2008年以降、ゴール数も減り、チームも低迷し、2010年オフに戦力外通告。ギリシャ1部のアリス・テッサロニキへ移籍。しかしクラブの財政難で半年で退団し、FC東京でプレー。 2012年からは、アビスパ福岡に完全移籍。移籍2年目には11ゴールと二桁得点をマーク。2015年、J2で3位、J1昇格プレーオフに勝利して5年ぶりのJ1昇格。2016年、J1で前後期最下位に終わり、再びJ2降格。 国際Aマッチ 1試合出場0得点(2016年まで)。173センチ、65キロ。 |
横浜Fジュニアユースからユースへ昇格し、ユース選手権優勝
坂田大輔は、神奈川県横浜市に生まれ、竹の子幼稚園時代からサッカーを始めます。小学生でも野庭キッカーズでプレーを続けると、中学時代から横浜フリューゲルスジュニアユースに入団しました。その後順調に成長して、ユースチームに昇格します。1999年、横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併によって、横浜F・マリノスユースに所属となりました。高校3年時には、U-18ユース代表に選出されるほど注目されます。2000年には、クラブユース選手権で自身がMVPに輝き、チームを優勝に導きました。
トップチームに昇格しFIFAワールドユース選手権でも得点王獲得
2001年、横浜F・マリノストップチームに昇格すると、6月にJリーグデビューし、8月には初ゴールも記録します。同年のナビスコカップには、全5試合に出場して、決勝のPK戦では2番目のキッカーに指名されました。見事期待に応えてゴールを決めると、チームは初優勝を飾ります。リーグ戦出場は11試合に終わりましたが、素晴らしいプロスタートを切りました。
2年目以降もリーグ戦の出場を増やしてレギュラーに定着します。そして、ユース代表としても輝きを放ちました。2002年10月のアジアユース選手権では、大熊清監督にスーパーサブに指名されて日本の準優勝に貢献します。1年後のFIFAワールドユースでも、この世代で過去1度も勝てなかった韓国戦で、同点&逆転ゴールをねじ込みました。準々決勝のブラジル戦で敗れてベスト8止まりとなり、1999年の3位という成績には及びません。しかし、4得点の坂田大輔は日本人初の大会得点王に輝きました。
マリノスの連覇に大きく貢献し、日本A代表試合にもデビュー
2003年、元日本代表監督の岡田武史がマリノス監督に就任し、FWのライバル久保竜彦がチームに合流します。ポジションを奪われてもおかしくない状況でしたが、レギュラーとして25試合に出場し6得点をマークしました。久保も16ゴールと爆発し、マリノスは1stステージおよび2ndステージ共に優勝する完全優勝を成し遂げます。2004年は、韓国代表の安貞桓(12点)に次ぐ、初の二桁10点を記録するなど、チームの2年連続年間王者獲得に大きく貢献しました。
2005年開幕前に、左膝靭帯を損傷し、不調な時期が続きます。それでも2006年には、初めて日本A代表にも選出されて、8月のキリンカップで代表デビューも果たしました。2007年には、不調から脱出して、リーグ戦全34試合に起用されます。同年は、自身2度目となる二桁10ゴールをマークしました。
マリノスが低迷時代に入り、多くの主力選手とともに戦力外通告
2008年以降も、多くのリーグ戦に出場しましたが、点取り屋としての役割を果たせません。チームもそれに呼応するかのように、J2降格危機にも陥りました。毎年のように交代する監督の信頼感を勝ち取ることが出来ず、2010年には20試合と出場機会を減らします。同年はわずか1ゴールに終わり、チームも8位と低迷しました。するとシーズン終了後、大幅な主力選手カットが始まります。マリノスの中心人物でもあった松田直樹、山瀬功治らも契約更新されず、坂田大輔も戦力外通告を受けました。
ギリシャで初の海外プレーも、半年間で退団と不完全燃焼
坂田大輔は、2010年シーズン途中から、海外含めて移籍先を探し始めていました。そして、戦力外通告を受けた後に、初の海外プレーへの道が開けます。Jリーグ各チームから声をかけてもらっていましたが、ギリシャ1部リーグのアリス・テッサロニキのオファーに対して即決しました。ほとんど日本人未開の土地でしたが、MFとしてプレーし予備予選ながらUEFAチャンピオンズリーグの試合も経験します。日本と全く異なるギリシャサポーターにも慣れた頃でしたが、クラブの財政難で半年での退団を余儀なくされました。
帰国後には、FC東京(当時J2)に移籍して再びJリーグでプレーします。同チームは、かつてワールドユースで自身を多く起用した大熊清が監督を務めており、8月から10試合に出場して、チームのJ1復帰に貢献しました。
アビスパ福岡ではキャプテンも務め、5年ぶりのJ1昇格を実現
2012年、アビスパ福岡へ完全移籍して、J2でのプレーを続けます。プロ入り初めてゲームキャプテンに指名され、開幕戦からゴールを決めるなど、主力として活躍しました。40試合というほとんどの試合に出場して、大黒柱として奮闘しましたが、J2でも18位と惨敗します。2013年には、自身3度目の二桁得点をマークしましたが14位、さらに翌年も16位と低迷期が続きました。
2015年から井原正巳が監督に就任し、開幕3連敗と最悪のスタートでしたが、第4節から11戦無敗のクラブ新記録を作り、上位進出します。坂田大輔は、終盤に途中出場して試合をしっかりとクローズさせるという役割を与えられました。若手にはなかなか務まらない役割を見事にこなし、最終的には2位のジュビロ磐田と同勝ち点の3位に食い込みます。さらにJ1昇格プレーオフも勝ち抜き、5年ぶりのJ1昇格を実現しました。しかし2016年シーズンは前後期とも最下位に沈み、1年でJ2に逆戻りします。坂田は、2017年も福岡で6シーズン目を迎えています。