名前 | 木之本興三(キノモトコウゾウ) |
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生年月日 | 1949年1月8日 |
国 | 日本 |
出身 | 千葉県千葉市 |
プロフィール | 中学からサッカーを始め、大学2年生のとき関東リーグ戦で、強敵早大を破り優勝。さらに4年生でキャプテンを務め、大学選手権で優勝。
古河電工に入社し、MFとして日本リーグに参加。1975年グッドバスチャー症候群という難病を患い、両腎摘出。選手生命を失い、週3回人工透析を受ける体に。 1983年古河電工を退職、日本サッカーリーグ初代の専従事務局長に就任し、サッカーの振興に尽力。サッカーのプロ化実現に際し、1991年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)常務理事、1998年専務理事。 サッカー2002年W杯強化推進本部副本部長も務める。2003年Jリーグ、日本サッカー協会を解雇。その後地元千葉で活動するも、2017年1月、68歳で死去。 |
古河電工時代、難病で選手生命を失い、5年の余命宣告を受ける
木之本興三は、千葉県千葉市で生まれ、中学時代からサッカーを始めます。千葉高校を経て東京教育大学(現在の筑波大学)へ進学すると、2年時には関東リーグ戦優勝、4年時には主将を務めて大学選手権優勝を成し遂げました。卒業後の1972年、古河電工へ入社して、サッカー部(現在のジェフユナイテッド市原・千葉)に入って活躍します。古河電工はJSL1部で戦う強豪チームであり、当時の監督は後に初代Jリーグチェアマンとなる川淵三郎が務めていました。
1975年、新規事業だったCATV営業部に所属し、プライベートでは結婚もするなど公私共に充実した日々を送ります。新婚旅行から帰ってきて、サッカーの練習を始めましたが突然身体の異変が起こりました。痛みもなく鮮血を吐いて倒れたため、病院へ駆け込みます。すると医師からは、肺・腎をおかす致死的な疾患であるグッドパスチャー症候群を宣告されました。腎臓の全摘出手術を受けて、サッカー引退も余儀なくされます。以降週3度の人工透析が欠かせない身体となり、非情にも残り5年の余命宣告すら受けました。
人工透析を欠かさず受けながらも、Jリーグ創設に大きく貢献
選手生命は絶たれましたが、木之本興三はサッカー界に大きな功績を残します。1980年、人工透析を続けながら復職すると、サッカーのプロ化に向けて動き始めました。当時の日本サッカー界は、アマチュア主体の日本サッカーリーグ(JSL)が存在し、1968年のメキシコ五輪の銅メダル獲得で一時的に盛り上がりを見せます。しかし、ワールドカップ予選は常に敗退し、プロリーグを持つ韓国にも歯が立たない日々が続いていました。
そして1983年に、総務主事・森健兒を中心に「JSL第一次活性化委員会」が発足されると、木之本も事務局長として抜擢されます。当委員会こそが、Jリーグの実質的スタートであり、日本サッカー協会にプロ化案を提出しました。1986年には、スペシャル・ライセンス・プレーヤー制度が行使されて、日本にもプロサッカー選手が多く誕生します。しかし、アマチュアリズムを掲げる日本サッカー協会の賛成は得られず、選手はプロとアマの混在、リーグはアマチュアという奇妙な状態が続きました。
木之本は人工透析を続けながら、森とともに諦めずにプロ化に向けて尽力します。すると日本サッカー協会内にも「プロ化検討委員会」が発足し、一気に加速しました。そして一時サッカーから離れていた川淵三郎が、森の後任としてJSL総務主事に就任します。その後は、川淵が日本サッカーリーグの象徴的存在となり、Jリーグが誕生しました。メディアへの露出が多い川淵が功労者として世間に認識されます。しかしJリーグ創生にあたって、黒子として実際に奮闘したのは森であり、木之本でした。
Jリーグ開幕は成功裏に終わり、日本は空前のサッカーブーム
1991年、加盟する10クラブが発表されて、年末には社団法人日本プロサッカーリーグが設立されます。木之本興三も常務理事に就任して、1993年についにJリーグ開幕を迎えました。地域密着のJリーグは、空前の大ブームを巻き起こします。1994年のアメリカワールドカップ最終予選では、後一歩で出場権を逸しましたが、日本はサッカー人気で溢れることになりました。
日韓W杯日本選手団団長を務めるなど、その後もサッカー界に貢献
木之本興三は、Jリーグ開幕後も、1994年には日本サッカー協会常務理事、1998年から日本プロサッカーリーグ専務理事などを務めて、サッカー界に尽力します。それらの職務の傍ら、Jリーグの関連会社であるジェイリーグ映像(現・Jリーグメディアプロモーション)、ジェーリーグフォト(現・Jリーグフォト)、ジェイリーグエンタープライズ社長も兼任しました。
1996年には、2002年日韓W杯開催が確定し、1998年には日本史上初のW杯出場を実現しますが、3戦全敗に終わります。すると自国開催における日本代表強化に向けて、強化推進本部副本部長に就任しました。気性が荒いフィリップ・トルシエ日本代表監督をたじろがせるほどの情熱をぶつけ、職務を全うします。そうした本気のぶつかり合いで、代表チームは強化され、見事初の決勝トーナメント進出を勝ち取りベスト16という結果をもたらしました。しかし、自身は大会期間中にホテルで倒れます。今度は、閉塞性血栓性血管炎(バージャー病)という大病を患っていました。
車椅子生活でもサッカーに愛情を傾け、68歳の若さで永眠
新たな難病のため、木之本興三は両足を切断するという悲劇に見舞われます。しかし日韓W杯で大きな結果を残したことが評価されて、川淵三郎の後任チェアマン候補として名前が挙がるようになりました。結局、その話は流れ、2代目には元鹿島アントラーズ社長だった鈴木昌が就任します。ところが、クラブ出身者がチェアマンとなるのは時期尚早と、公然と批判してしまいました。すると川淵との関係性が悪化し、Jリーグ専務理事、日本サッカー協会常任理事などを解雇されました。
表舞台から姿を消し、車椅子生活となりましたが、サッカーへの情熱はまったく失せることがありません。地元千葉で地域密着と若年層育成に取り組みを開始します。病気と闘いながらも、千葉大学で講義するなど精力的に活動しました。しかし、2017年1月、うっ血性心不全のため突然死が訪れます。大病に侵されながらも、サッカー界に尽力した功労者は、68歳で人生の幕を閉じました。