名前相馬直樹(ソウマナオキ)
生年月日1971年7月19日
日本
出身静岡県
プロフィール名門清水東高から早稲田大学に進む。在学中にバルセロナ五輪日本代表としてアジア予選に出場。1993年は、大学サッカー選手権大会で優勝。

1994年鹿島アントラーズに入団。2000年Jリーグ年間優勝に貢献。代表としては、1992年バルセロナ五輪代表。1994年12月A代表入り。1998年W杯フランス大会に出場。積極的なオーバーラップに定評がある。

2000年、天皇杯で左膝外側半月版損傷し戦線離脱。1年のリハビリを経て復帰すると、2003年は東京ヴェルディ、2004年には川崎フロンターレでプレー。同年、J1昇格を実現し、2005年現役引退。

2006年、Jリーグ功労選手賞 、2009年鹿島アントラーズ功労賞受賞。

2010年、FC町田ゼルビア監督就任。2011年からは2シーズン、川崎監督として古巣に復帰。2014年から再び町田監督に復帰すると2015年に、J2・J3入れ替え戦で勝利してJ2昇格。2017年は、同監督4シーズン目を迎える。

国際Aマッチ 58試合出場4得点。早稲田大学卒。175センチ、72キロ。

アマ時代は、五輪代表も経験してサッカーエリート街道を歩む

相馬直樹は、サッカーのお膝元・静岡県で生まれます。幼稚園時代から、ボールを蹴り始めると、小学3年生で名門・清水FCに入団しました。藤田俊哉も加入したチームは強豪となり、早くも全国優勝を経験します。清水市立第六中を経て清水東高校に進学すると、左サイドバックに転向し、さらにサッカーの才能が開花しました。1、2年時には国体を制し、3年時には全国高校サッカー選手権大会に出場と成果を出し続けます。高校卒業後は、早稲田大学へ進学してア式蹴球部に入部しました。

在学中にはバルセロナ五輪日本代表に選出されて、名波浩らとともにアジア予選に出場しますが2回戦で敗退して本戦出場を逃します。4年時には、全日本大学サッカー選手権大会に出場し、自身もベストDFに選出されて優勝を飾りました。

鹿島アントラーズ黄金時代のレギュラーとして8冠に大きく貢献

1994年、大学No.1の実力と噂されて、鹿島アントラーズに入団します。Jリーグ開幕元年にチャンピオンシップで敗れましたが、鹿島町はジーコ中心にサッカーの町として大きく盛り上がりました。ルーキーイヤーから多くの試合を経験すると、2年目にはリーグ戦全52試合中50試合に出場して、左サイドバックの絶対的レギュラーとなりました。1歳年上のセンターバック秋田豊とは、鹿島ゴール前の鉄壁なコンビを形成します。1996年に、悲願のリーグ戦優勝を達成すると、同年から鹿島黄金時代がスタートしました。

1997年の、リーグ戦前期優勝、ナビスコカップ、天皇杯、1998年もリーグ戦優勝、ゼロックス杯連覇、そして2000年にはJリーグ史上初の3冠(リーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯)など実にチームの8冠に大きく貢献します。怪我が少なく安定したプレーには定評があり、Jリーグイレブンは1995年から4年連続で受賞し、オールスターも常連でした。

日本代表不動の左サイドバックとして、フランスW杯出場

入団2年目の1995年に、日本フル代表に初選出されると以後常連メンバーとなります。鹿島同様に秋田豊と最終ラインを任され、都並敏史以降不在だった左サイドバックの穴を完全に埋めました。安定した守備、そして果敢なオーバーラップからの正確なセンタリングは日本代表の大きな武器となります。フランスW杯アジア予選14試合にも全戦出場して、日本のW杯初出場を手繰り寄せました。そして本戦でも全3戦に先発出場するなど当時の日本サッカーを大きく牽引します。1999年に代表を退くまで、チーム同様に不動のサイドバックを務めました。

現役生活最後は、川崎フロンターレでJ1昇格を実現して引退

順風満帆だったサッカー人生でしたが、2000年12月の天皇杯で左膝外側半月版損傷し、戦線離脱を余儀なくされます。約1年間という長いリハビリを経て復帰すると、2002年からは東京ヴェルディ1969へ期限付き移籍しました。そして、リーグ戦全30試合中27試合に出場して、完全復活を知らしめます。2003年は再び鹿島に戻り、20試合に出場しましたが戦力外通告を受けました。

2004年からは、川崎フロンターレに移籍して、初めてJ2でのプレーを経験します。全44試合という長丁場のリーグ戦では、15試合出場に留まりましたが、見事J2優勝してJ1昇格に貢献しました。翌2005年も、12試合と少ない出場ながらチームに貢献します。J1で8位と最低目標だったJ1残留を実現し、それを置き土産に現役を引退しました。

引退後は指導者に転身し、2チームの監督として手腕を振るう

引退後、解説者生活をスタートすると、Jリーグ功労選手賞 (2006年)、鹿島アントラーズ功労賞 (2009年)を受賞します。そして、2009年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得して指導者生活をスタートさせました。

2010年からは、ワールドカップを経験した日本人選手として初の監督を、FC町田ゼルビア(JFL)で務めます。J2昇格条件の4位以内を確保する3位でしたが、スタジアム整備の関係で、翌年からのJリーグ加盟は見送られました。相馬直樹は2011年から、現役最後を過ごした川崎フロンターレ監督に就任します。前半戦では8戦連続負けなしを記録するなど3位まで上昇させましたが、夏場以降に8連敗を喫するなど、同年シーズンは、J1でチームワーストの11位に終わりました。2012年も、継続して指揮を執りましたが、不調から脱することが出来ず低迷します。すると、4月に監督を解任されてチームを去りました。

その後、モンテディオ山形ヘッドコーチを経て、2014年から再びFCゼルビアの監督に就任します。当時、J3所属のチームでしたが、3位(2014年)、2位(2015年)と順位を上げて、2015年にJ2・J3入れ替え戦に挑みました。勢いに乗るゼルビアは、大分トリニータとの戦いを2戦2勝で退け、4年ぶりにJ2昇格を果たします。相馬はその後もチームの指揮を任され、2016年はJ2でも一時は首位に立つなど健闘を見せました。同年は、22チーム中の7位とJ2残留を確保し、近い将来のJ1昇格へ向けて2017年シーズンも監督として4シーズン目に突入しています。


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