名前 | アマラオ |
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生年月日 | 1966年10月16日 |
国 | ブラジル |
出身 | サンパウロ州 |
プロフィール | ポンチ・プレッタの少年チームで本格的にサッカーを始める。
1987年コメルシアウFCでプロとしてのキャリアをスタート。1989年にはイトゥアーノFCでサンパウロ州選手権2部優勝を果たす。1992年短期レンタルでパルメイラスへ移籍。同年イトゥアーノからレンタル移籍で東京ガス(現・FC東京)に加入。 1995年正式に東京ガスに移り、その後もJFLで活躍。1998年チームのJFL初優勝に貢献。J2所属となった1999年、チームのJ1昇格に貢献。J1でも安定した活躍を続け、2003年までプレー。サポーターから絶大の信頼を勝ち取り、キング・オブ・トーキョーと呼ばれた。 2004年湘南ベルマーレ、2005年FCホリコシ(後にアルテ高崎に改称)でベテラン選手としてプレーするも、2007年現役引退。 2009年にJFL・FC刈谷のコーチ就任後、2年ぶりに現役復帰。その後は指導者に専念し、2011年東京23フットボールクラブ監督、2014年暁星国際学園サッカー部ヘッドコーチ、2016年J2・ザスパクサツ群馬コーチ。2017年からはtonan前橋監督就任。183センチ、76キロ。 |
ブラジルでプロキャリアをスタートさせ、日本移籍話が浮上
アマラオは、ブラジルサンパウロ州の貧困な家庭に生まれます。8歳で同州カンピーナスへ引っ越したときから、サッカーを始めました。AAポンチ・プレッタのジュニアユースにテスト入団後、CBからFWへ転向するとその才能を開花させます。高校卒業後は、プロクラブのテストにことごとく失敗し、アマチュアとしてカピヴァリアーノFCでプレーしていました。1987年、カピヴァリアーノからレンタルでコメルシアウFCに移り、プロとしてのキャリアをスタートさせます。2年後に、イトゥアーノFCに移籍すると、2部リーグ優勝に貢献して、1部昇格を実現させました。
こうした活躍は、サンパウロ州でも知れ渡り、ビッククラブからも注目されるようになります。後に東京ヴェルディ監督を務めたネルシーニョがパルメイラスを率いており、短期レンタルながら引き抜かれました。名門パルメイラスでのプレーは、憧れのブラジル代表へ近づく第一歩と考えましたが、怪我で思うような活躍が出来ません。すると、イトゥアーノ監督から、日本の東京ガスサッカー部同行を提案され、金銭的条件から日本行きを決断しました。
東京ガスへの完全移籍が実現し、チームの絶対的エースに就任
1992年5月、イトゥアーノFCからレンタル移籍で当時JFLを戦う東京ガスサッカー部に加入します。当初は短期間でブラジルへ帰国し、再び代表入りを目指す予定でした。というのも、自身が描いていた環境とは相当かけ離れており、チーム内のほとんどの選手がプロではなかったことにも驚きます。しかし、資金難のイトゥアーノは延長を希望し、アマラオ自身もチームへの愛着が生まれて日本でのプレーを継続しました。
1993年、華々しくJリーグが開幕する中、日のあたらないJFLで活躍します。1994年には、JFL30試合に出場して20ゴールと爆発し、天皇杯でもベスト8を実現しました。こうした活躍に、1995年には完全移籍してチームの一員となります。チームは大熊清監督の手腕もあって徐々に力をつけていき、2試合に1点以上挙げる得点能力を持ったアマラオが絶対的なエースとなっていました。
キング・オブ・トーキョーとしてチームのJ1昇格に大貢献
1998年、FC東京としてプロクラブ化し、JFLでも初優勝を飾ります。この時点では、J1昇格は見送られましたが、翌1999年には、アマラオがクラブ史上初のハットトリックを達成するなど、J2で2位を実現してJ1昇格を果たしました。2000年、来日9年目にして、ついにトップリーグでのプレーがスタートします。同年、アマラオと新加入のツゥットの強力2トップによって合計30得点を記録するなど、J1昇格1年目ながら、16チーム中の7位と健闘を見せました。
アマラオは、上位リーグとなっても2試合に1得点以上の得点ペースが落ちることなく、チームに貢献します。他チームから引き抜きの話もありましたが、熱いサポーターの慰留によって、その後もFC東京でプレーを続けました。結局、36歳のベテランの年まで東京でプレーし、実に330試合という外国人同一クラブ出場数最多記録を樹立します。いつしか、サポーターからは「キング・オブ・トーキョー」と称されるほど、絶大な信頼をおかれ、2003年を最後に退団しました。
FC東京退団後も、年齢、怪我と戦いながらチームを渡り歩く
2004年、愛するFC東京を退団後、J2の湘南ベルマーレへ完全移籍します。開幕当初こそ好調をキープしましたが、年齢および怪我の影響を隠せず、19試合出場の1ゴールと不本意な成績に終わりました。1年限りで退団すると、2005年からはJFLに所属するFCホリコシ(後にアルテ高崎に改称)に完全移籍します。同年は24試合に出場して15ゴールなどベテランストライカーとしての実力を披露しました。2006年、怪我により出場機会が激減すると、8月から選手兼任監督に就任します。2007年は再び一選手として契約を交わしましたが、怪我の回復が出来ず現役引退を表明しました。
現役引退後も日本を離れることなく、指導者として活躍中
アマラオは外国籍プレイヤーとしては初のJFAアンバサダーに就任し、さらに自身の引退試合も行われます。しかし、2009年にJFL・FC刈谷のコーチ就任後、2年ぶりに現役復帰し、一時は現役最年長プレイヤーとなりました。同年、JFLで17位となり、東海1部リーグへ降格となると、翌年からは監督に専念します。JFL復帰を目指して指揮を執りましたが、2位に終わり、自身も退任しました。
その後も、日本への思いは消えず指導者としての活動を続けます。2011年は東京23フットボールクラブ監督、2014年には暁星国際学園サッカー部ヘッドコーチ、2016年にはJ2・ザスパクサツ群馬のコーチなどを歴任しました。2017年も、tonan前橋の監督として手腕を振るっています。