名前尹晶煥(ユンジョンファン)
生年月日1973年2月16日
韓国
出身光州広域市
プロフィール韓国Kリーグの富川に入団。攻撃的MFとして、天才ゲームメーカーと呼ばれる。1996年アトランタ五輪に主将として出場。のち負傷やスポーツヘルニアで手術を繰り返す。

2000年Jリーグのセレッソ大阪に入団。いきなり、レギュラーを掴むと同年1stステージ2位に貢献。2001年には天皇杯で活躍して準優勝に貢献。しかしリーグ戦では総合16位と惨敗してJ2降格。翌年J2で2位を確保して1年でのJ1復帰に貢献。日韓W杯にも本戦メンバーに選出される。

2003年からKリーグに復帰し、城南一和(2003年)、全北現代(2004-2005年)でプレー。その後再来日すると、2006年からサガン鳥栖でプレー。同年はJ2で当時最高位の4位を確保。2007年現役引退。

2008年鳥栖のテクニカルアドバイザーに就任し、2011年からは監督に就任。J2で2位を確保して、J1昇格を実現。2014年退任。2015年からは韓国に戻り、蔚山現代FC監督に就任。2017年からセレッソ大阪監督に就任。

ニックネームは知恵者を意味する“クェドリ”。東亜大学卒。173センチ、64キロ。

幼い頃からサッカーを始め、大学時代には韓国代表デビュー

尹晶煥は、1973年、韓国光州広域市で生まれ、幼い頃は、陸上に熱を入れます。1983年に韓国にプロサッカーリーグがスタートすると、ほぼ時を同じくして自身もサッカーを始めました。中学時代にMFに転向すると才能が開花し、クムホ高校を経て進学した東亜大学ではU-19代表に招集されます。在学中の1994年には早くもフル代表デビューを飾りましたが、同年のアメリカW杯出場は見送られました。

アトランタ五輪ではU-23韓国代表主将として戦うも予選敗退

1995年、大学卒業と同時に韓国スーパーリーグの油公コッキリ(現:済州ユナイテッドFC)に入団してプロキャリアをスタートさせます。チームはスーパーリーグ発足当初から存在する古豪の一つでしたが、それまで1989年の優勝一度きりと低迷していました。そんな中、尹晶煥は、1年目から主力メンバーの一人として活躍します。さらに、1996年にはユース代表としてアトランタ五輪にも出場しました。日本が、マイアミの奇跡として知られるブラジル戦で勝利した日に、キャプテンとしてガーナ戦を戦い、自らのPKで勝利します。しかし、韓国代表は日本同様にグループリーグで敗退しました。

その後、フランスリーグからのオファーも固辞して、韓国リーグを主戦場とします。チーム名は富川SK(プチョンSK)に改称され1997年から10位、7位、3位と順位を上げました。尹晶煥は相次ぐ怪我で、当初よりも出場機会を減らします。当然のように代表召集も遠ざかり、1998年のフランスW杯でも構想外でした。

セレッソ大阪でJリーガーとなり、チームのJ1復帰に貢献

2000年、セレッソ大阪と契約して、日本のJリーガーとなります。チームには、同じ韓国出身の盧廷潤(ノ・ジュンユン)も加入しており、尹晶煥はすぐに溶け込みました。そして、西澤明訓、森島寛晃らの強力攻撃陣を中盤から操り1stステージ快進撃の原動力となります。1stステージ第14節で首位に立ち、J1初のステージ優勝目前でしたが、最終節の川崎フロンターレ戦では、Vゴール負けして勝ち点差わずか1の2位に終わりました。

2ndステージでは一転して不調に陥り、7勝8敗と負け越して9位と低迷します。それでも年間順位は過去最高の5位を確保しました。尹晶煥はリーグ戦のほとんどの試合で出場するなどチームに大きく貢献します。同年の天皇杯でも3試合で3ゴールと決定力の高さを見せ付けてベスト8を実現しました。翌年の天皇杯も好調で、5試合で6ゴール、2アシストと大活躍してチーム2度目の準優勝に導きます。しかし、リーグ戦では、途中2度の監督交代などあって安定感を欠き、J2降格となりました。日韓W杯を翌年に控え、当初は韓国復帰を考えていましたが、セレッソのJ1昇格のため日本に残ります。西澤、森島の攻撃陣も揃って残留すると、J2で2位を勝ち取り、1年でJ1復帰を果たしました。尹晶煥は全44試合中の26試合と出場機会を減らしましたが、チームに貢献し、同年のW杯本戦メンバーにも選出されます。W杯での出場は1試合もありませんでしたが、精神的支柱として活躍して、ベスト4という結果をもたらしました。

Kリーグ復帰も、サガン鳥栖でのプレーを最後に現役引退

2003年からは再び韓国Kリーグに復帰してプレーします。城南一和、全北現代モータースで合計3シーズンを過ごし、冷静なゲームメイクを披露しました。しかし、再び日本でプレーしたいという気持ちを抑えきれず、2006年に再来日してJ2のサガン鳥栖に入団します。松本育夫監督の信頼を勝ち取ると、リーグ戦全48試合中の41試合に出場して、若手主体のチームを中盤から牽引しました。

特に後半戦は、守備が安定し同年J2を制した横浜FCと同じペースで勝利を重ねます。5位争いを一気に抜け出して、当時のクラブ史上最高の4位を実現しました。2007年シーズンは、ベテランとなり前年よりも出場機会を減らし、26試合出場に留まります。チームも優勝争いに加わることなく8位で終わり、契約満了とともに現役を引退しました。

サガン鳥栖監督でJ1昇格など指導者としても成果を見せる

現役引退後もチームに残り、サガン鳥栖のテクニカルアドバイザーに就任します。当時から、クラブは尹晶煥を将来の監督候補としており、JFA公認S級コーチライセンスを取得するまでヘッドコーチを務めましたが、実質の指揮を執りました。2011年、Jリーグ最年少の37歳で晴れて監督に就任すると、クロス攻撃を主体とする韓国型サッカーを取り入れます。するとJ2で安定していなかったチームにおいて、いきなり2位という過去最高位を実現しました。

見事J1昇格を実現させると、その後の指揮も任されます。2012年、J1昇格後は厳しい戦いを強いられるはずが、いきなりJ1で5位を実現します。さらに2013年は天皇杯でベスト4と快進撃を続け、2014年シーズンも中盤で首位に浮上させました。確実にチーム力がアップしていたにも関わらず、突如監督退任が発表されます。フロントとの方針に違いによる突然の解雇劇となりましたが、チームは同年も5位でシーズンを終えました。

2015年から韓国Kリーグへ復帰して、蔚山現代FC監督を務めます。2シーズンで7位、4位と優勝という結果はもたらせませんでした。すると、2017年から、三度日本へ来日し、前年J1昇格を果たしたかつての古巣セレッソ大阪監督に就任しました。最低限の目標をJ1残留としてスタートさせましたが、暫定ながら途中首位に立つなど、台風の目として大暴れしています。

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