名前エジミウソン
生年月日1974年3月26日
ブラジル
出身パラナ州
プロフィール1988〜95年ブラジルのマツバラ、1995〜97年Jリーグの京都パープルサンガ、1997〜98年ブラジルのパルメイラスを経て、1998年から再びJリーグの京都パープルサンガに移籍。1999年2月退団。

同年4〜6月ブラジルのパルメイラスへ期限付きで移籍。2000年ブラジルのECビクトリアに入団。同年4〜6月Jリーグの横浜F・マリノスにレンタル移籍。同年1stステージの優勝に貢献。スピードに乗ったドリブルと破壊的なシュートが売り物。

2001年以降は、故郷ブラジルで2007年までプレー。176センチ、69キロ。

かつて三浦和良もプレーしたSEマツバラでプロ生活スタート

エジミウソンは、ブラジルパラナ州に生まれ、10代の頃からプロサッカーとしてのキャリアをスタートさせます。1988年から、故郷パラナ州のカンバラを本拠地とするSEマツバラに入団しました。同チームは、日系人のスエオ・マツバラが創立者で、金の卵を発掘し育成することを目的としています。エジミウソンが入団する直前には、単身ブラジルへ渡った三浦和良もプレーしたチームでした。二人が同時期に所属することがありませんでしたが、後にJリーグ入りしたシジクレイやマルキーニョらとチームメイトとなります。エジミウソンは、1995年までプレーしてチャンスを待ちました。

緊急来日して、京都パープルサンガのJリーグ昇格に貢献

1995年、エジミウソンはブラジルとは地球の裏側に位置する日本から獲得オファーを受けます。そのチームは、JFLでJ1昇格目指して戦う京都パープルサンガでした。1922年に発足した「京都紫郊クラブ」という古い歴史を持っており、1992年に、JFL2部で2位を確保してJFL1部へ昇格します。1995年からは、ブラジル代表として3度のW杯に出場したジョゼ・オスカー・ベルナルディを監督として招聘していました。

オスカー監督は、バウタザールらブラジル人助っ人を多く獲得し、Jリーグ昇格を目指しました。しかし、開幕から不調に陥り、昇格の条件と言われた年間5敗を前半戦だけで喫します。チームの弱点は得点力不足にあり、その対策としてエジミウソンを緊急補強しました。するとスピードを生かしたドリブルを武器に得点を重ね、ゴール前で相手にとって危険な存在となります。息を吹き返した京都は、後半戦で怒涛の8連勝を達成してJFL優勝争いに踏みとどまりました。終盤に首位を走っていた福岡ブルックスとの直接対決にも勝利するなど、最終節を前にして首位に立ちます。最終戦はプレッシャーに負けて破れ、2位に落ちましたが、エジミウソンは16試合で13ゴールと活躍し悲願のJリーグ昇格を実現しました。

初のJリーグでは低迷し、チームも大型連敗から最下位に沈む

1996年、初のトップリーグでの戦いは、力の差をまざまざと見せ付けられます。開幕戦で、ヴェルディ川崎と互角の戦いをするも敗れると、そこから連敗街道を歩まされました。得点力を期待されたエジミウソンも、開幕から1点も取れずチームの連敗が伸びていきます。開幕12連敗となった時点で、ヴェルディ川崎からラモス瑠偉、ガンバ大阪から山口敏弘を獲得するも連敗は止まりませんでした。

同年は1シーズン制となっていましたが、前半戦15試合で1試合も勝利できず、後半に17連敗を喫した時点でオスカー監督が解任されます。奇しくも解任後最初の試合(ナビスコカップ)でようやく勝利しました。その後リーグ戦1勝ももぎ取ると、ようやくチームが復活の兆しを見せます。エジミウソンも第26節でシーズン初ゴールを決めると、5試合で4ゴールと前年並みの輝きを見せましたが、チームは最下位に終わり、自身も退団しました。

再び京都でのプレーが実現し、FWとしてチームのJ1残留に貢献

1997年、ブラジルへ帰国してサンパウロビックラブの一つSEパルメイラスでプレーします。しかし、早くも翌年には、再び京都のユニフォームを着て闘うことになりました。チームは、前年Jリーグで17チーム中の14位と、自身が経験した最下位から少しだけ順位をあげます。そして、1999年からJ2の創設のため、J1残留ということが大きな目標となりました。

新監督に元日本代表監督のハンス・オフトを迎えて、1stステージをスタートしましたが不調に苦しみます。第12節でオフト監督は解任されましたが、その時点でエジミウソンもノーゴールでした。清水秀彦が監督を引き継ぐと、少し盛り返し1stステージを6勝11敗で折り返します。自身も4ゴールと不本意でしたが、2ndステージでは点取り屋としての特徴を発揮しました。3試合で1試合2ゴールを達成するなど8得点をあげて、9勝8敗と勝ち越しに成功します。エジミウソンはチーム2位の12得点を記録し、総合順位15位で何とかJ1残留を達成しました。

横浜F・マリノスの助っ人として得点力を発揮し、優勝に貢献

1999年は、再びSEパルメイラスへ復帰すると、チームはコパ・リベルタドーレスを制します。南米チャンピオンとして、トヨタカップを戦うために日本へやってきましたが、チームは敗れました。しかし、半年も経たないうちに、Jリーグへ戻ってきます。2000年シーズン開幕早々、横浜F・マリノスへの期限付き移籍が発表されました。

チームは、ストライカー城彰二、さらに扇の要・井原正巳が不在となり、苦しいスタートとなります。しかし若き司令塔・中村俊輔が中心となって優勝争いに加わりました。エジミウソンも第7節で初ゴールを決めると、1stステージ終盤に爆発力を見せます。終盤4試合で5ゴールをあげるなど大活躍し、優勝が決まった最終節でも決勝ゴールを記録しました。23試合で7得点と二桁には届きませんでしたが、チームの1stステージ優勝に貢献します。さらにナビスコカップ、天皇杯でもゴールを決めるなど、大きな存在感を見せました。

同年限りで、エジミウソンのJリーグでのプレーは終わりを告げます。以後はブラジルで、様々なチームを渡り歩いて2007年までプレーしました。

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