尾花高夫について
名前 | 尾花高夫 |
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生年月日 | 1957年8月7日 |
国 | 日本 |
出身 | 和歌山県伊都郡 |
プロフィール | 新日鉄堺を経て、昭和43年ドラフト4位でヤクルトに投手として入団。59年14勝8敗7Sをあげる。平成元年5月100勝達成、3年引退、解説者を経て、7年ロッテ投手コーチ、9年ヤクルト投手コーチ、11年ダイエー投手コーチとなる。通算14年424試合112勝135敗29S、防御率3.82
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練習に向かう姿勢を評価されてのプロ入り
尾花高夫のアマチュア時代のイメージを聞かれても思い浮かぶという人は少ないかもしれません。というのも尾花が在籍したのはPL学園、新日鉄堺と名門チームでしたが、当時のPL学園は後のような強豪チームと言うわけではなく、また尾花自身も線が細く、決してエースと言うわけではありませんでした。実際に新日鉄堺でもエースと言うわけではなく、あくまで控え投手のひとり。そのため、77年のドラフト会議時にもほとんど注目されることはありませんでした。
しかし、そんな尾花に目を付けていたのがヤクルトスワローズのスカウトである片岡宏雄。この片岡も当初は同じ新日鉄堺の捕手だった中出謙二を指名するつもりで視察に来ていましたが、片岡の印象に残ったのは中出ではなく、尾花の練習に対する姿勢でした。
投手の中にはスカウトが見ている時はちゃんとブルペンに入っていても、いざスカウトや関係者がいなくなると手を抜くという選手もいます。しかし、尾花は誰が見ていても見ていなくても、黙々と練習を続けていきました。その姿勢を見た片岡は当時のヤクルト監督である広岡達郎の野球観に合うと判断。この一点を決め手として、この年のドラフト会議で尾花はヤクルトから4位指名を受けて入団します。
エースとしてヤクルトを支える
入団当初の尾花高夫は練習に向かう姿勢を評価されましたが、身体はまだまだ細め。そのため、1年目は主に二軍で体作りから始めました。そのため、この年のヤクルト初優勝には貢献できませんでしたが、シーズン終盤には一軍に昇格し、初勝利を挙げました。
尾花が台頭したのは翌79年から。この年のヤクルトは優勝の立役者となったチャーリー・マニエルを放出したことで低迷しますが、36試合に登板して、4勝9敗と言う成績を残しました。
本格的に先発投手として尾花が台頭したのは80年から。この年も尾花は8勝13敗と負け越しましたが、完投10を記録して、200イニングを投げるというイニングイーターぶりを発揮。さらに2年連続で4点台だった防御率もこの年は3点台に抑え込むなど持ち前の制球力の高さを発揮しました。この制球力の高さを生かすべく、首脳陣は尾花を先発だけでなくリリーフとしての起用も増えました。
そのため、82年から85年までは先発とリリーフを兼任して4年連続で二桁勝利を挙げました。この頃のヤクルトは長年エースを務めていた松岡弘が現役を去ったばかりでエース不在でしたが、その空位となっていたエースの座を尾花が引き継ぎました。
しかし、この当時のヤクルトの戦力不足は深刻で、翌86年から尾花は3年連続でリーグ最多敗戦投手に。ですが、尾花は腐ることなく登板し続け、88年には開幕投手に抜擢。東京ドームでの公式戦最初の勝利投手になりました。翌89年には通算100勝を挙げました。
その後、91年を最後に現役を引退。1年目に優勝して以来、ヤクルトは低迷し、92年にリーグ優勝をしたため、残念ながら尾花は現役時代に優勝を経験することなくキャリアを終えました。
ヤクルト、ダイエーの投手陣を改善
現役引退後、尾花高夫は解説者に転身。しばらく現場からは遠ざかりましたが、そんな尾花にコーチの職を与えたのはかつての上司である広岡達郎。広岡がGMを務めていた千葉ロッテマリーンズの投手コーチに就任します。
ボビー・バレンタイン監督の下で投手コーチとして奮闘した尾花は伊良部秀輝、小宮山悟、そしてエリック・ヒルマンなどロッテの主戦投手をはじめ、成本年秀、河本育之らを育て上げて2位に押し上げる原動力となります。
この手腕を見たのはヤクルトスワローズ監督の野村克也。97年から尾花はヤクルトの投手コーチとして復帰します。戦力外になった選手たちを復活させることで野村再生工場と異名を取ったチームですが、尾花はその中で現場監督と言う異名を取るように。97年の日本一はまさに尾花の功績の一つとも言えるでしょう。
その手腕を高く評価したのは王貞治。当時福岡ダイエーホークスの監督をしていた王ですが、長年の課題が貧弱な投手陣でした。その再建を託すため、99年から尾花を投手コーチとして迎え入れます。そして開幕戦、尾花はその王監督にいきなりこんなやりとりをしました。
尾花は「この試合、何対何で勝つつもりですか?」と王監督に尋ね、怪訝そうな表情になった王監督にスコアによって投手のスタンバイが変わることを説明。これに王監督も感銘を受け、投手起用は尾花にすべて託すようになります。99年からの7年間でチームは5度の優勝を飾る強豪チームに変身。チーム防御率は尾花の就任前と後とでは1点も変わるという激変ぶりを見せました。
横浜監督時代は本来の適性を発揮できず
尾花高夫の投手コーチとしての適性の高さは疑いようがなく、06年からは巨人の投手チーフコーチに就任。低迷していた巨人を07年から3連覇に輝かせるなど、その投手育成能力は高く買われました。巨人時代は育成出身の山口鉄也を中継ぎ投手として大成させ、ここでもチーム防御率を就任前の05年で4.80だったものを06年で3.65に改善させ、さらに09年には巨人としては19年ぶりとなる2点台の2.94にまで改善させるという実力を発揮しました。
ヤクルト、ダイエー、巨人と3球団合わせて7度のリーグ優勝、4度の日本一に輝いた手腕を買われた尾花は10年から横浜ベイスターズの監督に就任。この頃の横浜はプロ野球史上に残るレベルの弱小チームで、何より投手陣がボロボロでしたが、尾花なら何とかしてくれるとファンは高く期待していました。
しかし、さすがに戦力不足は尾花でも何ともならず、さらに監督としての適性は疑問視されることもままあり、3年契約だったにもかかわらず、11年オフに解任されてしまいます。
その後、1年間の浪人生活を送った後に13年から巨人の投手コーチに復帰。17年現在は一軍のブルペンコーチとして巨人投手陣を支えています。