大森剛について
名前 | 大森剛 |
---|---|
生年月日 | 1967年8月4日 |
国 | 日本 |
出身 | 奈良県奈良市 |
プロフィール | 高松商1年の時、夏の甲子園に出場し、慶大に進学。昭和63年春の東京六大学野球リーグで打率.500、本塁打6、打点16をマーク、史上6人目の三冠王を獲得。大学時代の通算打率.356、本塁打16、打点78。ソウル五輪代表。平成2年巨人にドラフト1位で入団。同年38試合に出場し48打数7安打、打率.146。4年はイースタン新記録の27本塁打をマーク。10年シーズン途中で近鉄に移籍。11年シーズン終了後、引退し巨人の球団職員となる。実働10年、132試合、29安打、5本塁打、16打点、0盗塁、打率.149
|
高校1年にして甲子園の地へ
奈良県で生まれ育った大森剛ですが、中学生のころまでは父の仕事の都合で香川県高松市に住んでいました。野球を始めたのもそのころで野球どころの四国で野球のキャリアを進めたことが大森にとっては幸運でした。
ハイレベルなところで野球をしていた大森は中学生にして硬式野球の経験を持っていました。そのころになると関西に引っ越しになりましたが、大森の活躍は高校球界のスカウトたちから注目されるように。大森は高校進学時にPL学園、天理高校と関西の甲子園名門校から多数声をかけられますが、大森はこれらの誘いを蹴って、自身が野球を始めた街である香川の名門校、高松商業への進学を決めました。
越境進学となった高松商業に入学した直後から大森は間もなくレギュラーを獲得し、すぐにクリーンナップを打つように。大森を擁した高松商業は香川県大会を勝ち上がり、なんと甲子園大会に出場します。残念ながら甲子園大会では2回戦で散りましたが、一年生にして出場したという実績はスラッガーたるものとして話題になりました。
ちなみにこの年の甲子園と言えば、水野雄一を擁した池田高校が注目されましたが、優勝したのは清原和博、桑田真澄のKKコンビが大活躍したPL学園。もし、大森がPL学園に入学していたら、この中に大森がいた可能性もあり、史上最強と称されるこのころのPL学園がますます強力になっていたことも考えらえます。
慶応大学のスラッガーとして活躍
高校1年生にして甲子園大会に出場した大森剛ですが、実はその後、大森は甲子園大会に縁のないまま高校時代を終えました。これではプロ入りは考えにくいと考えた大森は大学進学を決意。六大学の代表チームとして挙がる慶応大学へと進学します。
大森がクローズアップされたのは2年生の春。このころから4番ファーストのポジションを確立した大森は自慢の打棒を発揮して、東京六大学リーグ、全日本大学選手権で優勝する原動力に。そして3年生の春のリーグ戦では打率5割、6本塁打、16打点を記録して、リーグ史上6人目の三冠王に。
ちなみに六大学リーグで三冠王に輝いた打者には過去には岡田昭信、小早川毅彦、大森の後には高橋由伸、さらに鳥谷敬も獲得。プロでも成功する一つの指針を残したことでプロのスカウトからも注目されるようになりました。
さらに88年に大森はソウルオリンピックの野球日本代表に選出。大学生での代表入りは大森のほかに、野村謙二郎、笘篠賢治ら後にプロ入りする選手たち。ここでも大森のすごさがわかります。この大会でも銀メダルを獲得する実力を見せました。これらの活躍を合わせて結果、大森の大学時代の通算リーグ成績は打率3割5分6厘、17本塁打、78打点と一流の成績を残しました。
迎えた89年のドラフト会議、KK世代が大学を卒業して迎えるということでかなりの好世代として知られていて、中でも目玉になったのは野茂英雄、12球団中8チームが指名するという大人気でしたが、巨人は大森の獲得が有力視されていました。
しかし、この年のドラフト候補生は高校生も有力な選手が多数いました。中でも注目されていたのは清原以来となる高卒スラッガーの元木大介。早くから巨人入りを熱望していた元木は「巨人以外は入団しない」と早くから巨人一本を決意。一方で大森も巨人入りを希望していただけに巨人はどちらを取るかで悩むように。野茂の獲得はパスする一方で、大森か元木か選ぶという究極の選択を巨人は迫られましたが、最終的に巨人がドラフト1位指名で選んだのは大森。元木は涙にくれるというドラフト会議になりました。
芽が出なかったプロ時代
大波乱のドラフト会議を経て、大森剛は巨人選手の仲間入り。当時の監督である藤田元司の後輩にあたることで大いに期待された大森は背番号も「24」。引退したばかりのスター選手中畑清の番号を授かりました。
大森は大学時代に三冠王を取るなどの活躍を収めましたが、本質は中距離ヒッター。しかし、チームの意図としてはスラッガーとしての活躍を期待していただけに大森は本塁打狙いの打撃を繰り返すうちにいつしか、フォームを崩してしまいました。ちなみに大森が苦しんでいた頃、巨人に入団したのは浪人生活を選んだ元木大介。たとえ浪人しても巨人入りしたいという思いがあったように、当時のアマチュア選手には巨人ブランドが絶大のものだったということがわかります。
大森は二軍に甘んじるようになりますが、その打力はやはり本物。92年にはイースタンリーグで本塁打、打点の二冠王に輝き、中でも放った本塁打数27本はリーグ記録。しかし、大森はファーストしか守れないということもあり、外国人選手らと争わなければなりませんでした。さらに大森に不運だったのは93年オフから導入されたFA制度。他球団のスター選手を獲得できるようになるこの制度で巨人は毎年のように有力選手を獲得するように。実際に93年オフには落合博満を中日ドラゴンズから獲得したように、ますます大森の起用が減ることになりました。
そんな大森が巨人時代、最も輝いたのは96年。この年もイースタンリーグで本塁打、打点の二冠王を獲得し、一軍に昇格しましたが、落合がケガで戦線を離脱したことでファーストのレギュラーに定着。結果的に14試合にしか出場できず、打率も1割8分9厘とさほどいい数字ではありませんでしたが、日本シリーズで打率3割3分3厘、2本塁打、3打点と大活躍。これでようやく大森もクローズアップされるようになりました。
ところがこの年のオフ、大森と同い年の清原和博がFA移籍で加入。またも大森はポジションがなくなりましたが、自らの意思で大森は外野へのコンバートを決意。これが利いたか、翌97年の開幕戦のスターティングメンバーに選出されましたが、前年のブレイクがウソみたいな大不振。これで見切りを付けられたか、98年には近鉄バファローズへトレード。この年を限りに現役を引退しました。
スカウトとして坂本勇人を発掘
残念ながら大森剛のプロ生活は大成したとは言えないものでしたが、大森は引退直後に巨人に戻り、スカウトとして活動することに。大森のスカウトとしての信念は第一印象の重視で、「投手の3球、打者の一振りで見分けたい」と語っていました。そんな大森の最大のヒットとなったのは坂本勇人の発掘でした。
光星学院の2年生のころの坂本は当時、あまり注目された選手ではありませんでしたが、大森はこの頃から早くも目を付けていました。大森はこれこそドラフト1位の素質と信じ、坂本の1位指名を強く推しましたが、当時の球団首脳陣はドラフト1位で狙うは愛工大名電の超高校級ショートと話題になっていた堂上直倫。しかし、大森は坂本の方が上と信じていたためか、「進退をかけてでも推したい」と発言。大森の熱意に推された巨人はハズレ1位で坂本の指名を決定。結果的に堂上を外した巨人はハズレ1位で坂本を指名しましたが、その後の坂本の活躍を見ると、大森の目が間違ってなかったことを証明しました。
その後大森は出世し、16年からは国際部課長として巨人の役職に就きました。