大塚晶文について

名前 大塚晶文
生年月日 1972年1月13日
日本
出身 千葉県千葉市
プロフィール 横芝愛敬高3年春に県大会ベスト8。東海大学4年春の最優秀投手賞。のち日本通運に入る。平成8年都市対抗野球に本田技研の補強投手として出場、胴上げ投手に。9年ドラフト2位で近鉄に入団。同年4勝5敗7Sで127奪三振。10年からストッパーとして定着、同年の最優秀救援投手に選ばれる。13年1勝5敗25Sを挙げ、12年ぶりのリーグ優勝に貢献。182センチ、90キロ、右投右打

社会人野球で活躍して注目の的に

大塚晶文が野球を始めたのは小学生のころから。その当時からピッチャーとして活躍していた大塚ですが、当時は地肩が強いだけの選手でさほど目立った活躍もありませんでした。そのため高校も県内の名門校ではなく、横芝敬愛高校へ進学。高校当時のベストは県5回戦まででした。東海大学に進学後は主戦投手として台頭し、4年時には春季大会で最優秀投手賞を取りましたが、大塚が本来の力を見せたのは社会人野球でのことでした。

大学卒業後に日本通運へ入社し、硬式野球部に入部した大塚は150キロ近いストレートと切れ味鋭いフォークボールを駆使してすぐさまエースに君臨。チーム自体は決して強豪と言うわけではなかったのですが、社会人野球の都市対抗野球大会には補強選手と言う制度があり、これで大塚の存在がクローズアップされます。

96年のこの大会で本田技研の補強選手として選出された大塚は入来祐作とともに強力な投手陣を形成。本田技研の優勝に大きく貢献するとともに、大塚自身も胴上げ投手に。速球とフォークボールの切れ味の鋭さはプロレベルとして、スカウトが殺到するようになりました。

そうして迎えたこの年のドラフト会議。アトランタオリンピック出場選手はもちろん、大学球界のスターなど即戦力選手が目白押しの中で大塚は近鉄バファローズからドラフト2位指名を受けて入団。かつてのエース、野茂英雄が退団して以来空き番となっていた背番号「11」を渡されるなど、期待値の高さは抜群でした。

即戦力投手として近鉄の優勝に貢献

近鉄の即戦力投手として期待されていた大塚晶文。もともと打撃が強いチームで投手陣は脆弱と言うのが近鉄のチームカラーでしたが、大塚はそんなチームカラーを払拭すべく、1年目からいきなり52試合に登板。すべてリリーフの登板で4勝5敗、7セーブと言う好成績を残したのはもちろんですが、特筆すべきはその奪三振数。82.2イニングを投げて127奪三振を記録するというものでした。大塚の速球は150を超えるようになり、さらにフォークボールのほか、伝家の宝刀と呼ばれたのはスライダー。特にこのスライダーの威力は抜群で、あのイチローですら「球が消える」と称するほどでした。

これだけ高い奪三振数を誇る大塚をセットアッパーとして使うのはもったいないとばかりに98年からは当時のクローザーである赤堀元之を差し置いて、抑え投手として定着。この年には35セーブを挙げて最優秀救援投手に輝きました。この年をキッカケにここから抑え投手としてのキャリアを積み重ねることになりました。

近鉄時代の大塚のハイライトとなったのは01年。この年の大塚は開幕から不調で、シーズン前半は中継ぎ降格、さらに二軍落ちなどのスランプを経験しましたが、後半戦には本来の姿を取り戻して復調。この年のパリーグは近鉄、西武ライオンズ、福岡ダイエーホークスの三つ巴となりましたが、大塚の復調で近鉄が接戦をものにするようになり、逆転でリーグ優勝を達成。大塚自身も9月に月間MVPを獲得しました。

ところが02年、大塚は脇腹痛で出遅れてしまい、41試合の登板にとどまりましたが、2勝1敗22セーブ、防御率は1.28で前年よりも好成績を残しました。しかし、年俸面で不満のあった大塚はこの年のオフにポスティング制度を利用してメジャーへの移籍を目指しましたが、残念ながら入札はなし。この結果、近鉄を自由契約になり、その後金銭トレードで中日ドラゴンズへ移籍します。

03年の大塚は初のセリーグでしたが、1勝3敗17セーブを挙げてクローザーとして活躍。オフには再びポスティングシステムでの移籍を目指しましたが、今度はサンディエゴ・パドレスが30万ドルで落札。大塚のメジャー移籍が決まりました。

第1回WBCの胴上げ投手に

メジャーリーガーとなった大塚晶文は04年の4月にメジャーデビュー。当時は敗戦処理からのスタートでしたが、次第に重要な局面を任されるようになり、最終的にはセットアッパーに。結果的に日本人投手で最多となる73試合に登板して、リーグ最多となる34ホールドを記録。防御率も救援投手の中ではリーグ3位となる1.75と言う抜群の成績を残しました。

続く05年は他球団からの研究もあったためか、2勝8敗22ホールドと前年よりも成績を落としましたが、パドレスのリーグ優勝には貢献。そしてこの活躍が認められて、WBC日本代表に選出されました。

06年の1月にトレードでテキサス・レンジャースに移籍することになった大塚ですが、3月開催のWBCには問題なく出場。世界を知るクローザーとして王ジャパンの守護神として君臨。中でもハイライトとなったのが決勝のキューバ戦。8回裏1死ながら1点差に詰め寄られた場面で登板した大塚はたったの4球で2アウトを取るという完璧な火消し。これで流れを取り戻した日本代表は9回表に4点を追加。大塚は9回も続投し、1点を失いましたがキッチリ抑えて、見事に胴上げ投手となり、日本代表を初代WBCチャンピオンに輝かせました。

肘の故障で不遇をかこった晩年

WBCの活躍でその栄誉を不動のものにした大塚晶文ですが、レンジャース移籍後は苦難の連続でした。1年目の06年こそ、2勝4敗32セーブと活躍しましたが、翌07年の夏には右肘を痛めて退団。後にトミー・ジョン手術必要な大ケガと判明。08年に手術を受けましたが、回復することはなく、メジャー契約が取れないのはもちろん、日本のプロ野球チームからも声がかかりませんでした。

大塚がようやく復帰したのは右ひじ手術から5年がたった13年。独立リーグの信濃グランセローズに入団してからでした。5年ぶりにプロチームに所属することになった大塚ですが、身体はもう限界を迎えていました。6月の練習中に右肩を痛めてしまい、結果的に登板は翌14年に1回、打者1人だけに投げただけにとどまりました。これで大塚は現役引退を発表。15年からは中日ドラゴンズの投手コーチとして籍を置き、17年現在は派遣コーチの肩書で中日のほか、パドレスの3Aチームへコーチとして派遣されるなど日米をまたぐ活躍を見せています。

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