名前加藤康介(カトウコウスケ)
生年月日1978年7月2日
日本
出身静岡県清水市
プロフィール幼い頃から野球を始め、左利きに転向。

中学時代、ノーヒットノーランを達成するなど投手として才能を開花させる。清水商業高校時代は甲子園出場経験無し。卒業後は日本大学へ進学して本格派左腕として活躍。シドニー五輪日本代表候補となる。

2000年ロッテを逆指名してドラフト2位で入団。2001年4月対近鉄戦でプロ初勝利、対西武戦で初完投勝利を挙げる。同年先発として9勝11敗の成績も、新人王は逃す。2003年、怪我や病気で出遅れると長い不調の時期を過ごす。その間ライバルも台頭して出場機会を失い、2007年開幕直後にオリックスへトレード。

新天地でも2年で2試合の登板に終わり、2008年オフに戦力外通告。トライアウトを受験して、横浜DeNAへ移籍。中継ぎとして適正を見せるも、防御率が悪く、2010年オフに戦力外通告。

2011年から阪神に移籍すると、2012年リリーフとして41試合に登板して防御率0.83の好成績を残す。2013年は勝ちパターンの一角として、チームトップの61試合に登板して完全復活を見せる。2014年好スタートを切るも、腰を故障し後半戦に活躍できず。2015年も股関節痛が酷く6試合登板に終わり、自身3度目の戦力外通告。

合同トライアウトを受験し、独立リーグ福島ホープスと契約。選手兼任コーチとして活躍中。

NPB時代の通算成績は320試合、29勝43敗1S、54ホールド、防御率4.42、574回2/3、509奪三振。
独立リーグ時代の通算成績は33試合、1勝0敗0S、防御率1.91、33回0/3、46奪三振(2016年まで)。

清水商業高卒、日本大学卒、181センチ、80キロ、左投左打

サッカーが盛んな町からシドニー五輪日本代表候補が輩出

加藤康介は、サッカーが盛んな町、静岡県清水市に生まれます。半ば、父親に強制される形で野球を始め、幼い頃の火傷の影響から本来の右利きを野球では左利きに転向しました。中学時代には、ノーヒットノーランを達成するような好投手に成長します。サッカー強豪校の清水商業高校進学後も、甲子園出場こそありませんでしたが、県内屈指の投手として名を馳せました。

日本大学へ進学すると、直球で三振を奪う本格派投手としてさらに頭角を現します。一時2部リーグ降格も経験しましたが、豪腕で1部返り咲きにも貢献しました。そして、1部リーグ通算では、42試合登板、8勝7敗、防御率3.15、80奪三振という成績を残します。スピードある左腕は評価されて、シドニー五輪日本代表候補として千葉ロッテマリーンズの鹿児島キャンプにも参加しました。

新人王を逃すも、先発投手に定着して2年で20勝をマーク

ロッテキャンプ参加も大きな契機となり、加藤康介は2000年のドラフト会議でロッテを逆指名します。2位指名という形で入団し、即戦力として期待されました。当時のロッテ先発投手陣は、黒木知宏、小野晋吾、さらに広島から移籍したミンチーなど、右投手が多く、加藤はすぐにチャンスを与えられます。2001年の開幕第4戦に、初登板を初先発で迎えると、7回1/3を2失点と上々のデビューを飾りました。2度目の先発登板で嬉しいプロ初勝利を挙げると、ローテーションを守ってチームに貢献します。夏場に調子を落として、二軍降格も経験しましたが、終盤に復帰して、9勝10敗、防御率4.11でルーキーイヤーを終えました。

新人王選出では次点に終わりましたが、2年目もロッテ貴重な先発左腕として開幕ローテーション投手を務めます。開幕第2戦に先発して敗戦投手となると、チームの連敗も続き、ワースト記録に迫る開幕11連敗を喫しました。この間、自身も3敗を記録するという最悪のスタートでしたが、後半に勝利を積み重ねて、自身初の二桁11勝をマークします。ストレートと落差の大きいカーブを武器に、先発として2年で20勝を挙げましたが、リーグワーストの15敗、防御率4.58と課題も明らかになりました。

プロ3年目、故障、病気、ライバル等が一気に襲い掛かる

プロの投手としてさらに階段をかけあがりたいところでしたが、3年目から多くの困難が待ち受けます。アレルギー体質(アトピー症)の治療で出遅れると左手腱鞘炎、右足首骨折と故障が続き、2003年は1勝、2004年は0勝とチームに貢献できませんでした。2005年、怪我も癒えて完全復活を証明したいシーズンは、6人の投手が二桁勝利を達成するなど出番が回ってきません。同年、イースタンで完全試合を達成しましたが、チームが成し遂げたシーズン2位からの日本一にはほとんど貢献できませんでした。

オリックス、横浜と移籍を繰り返すも、4年で2度の解雇通告

2006年も1勝に終わり、2003年からの4年間でわずか4勝とチーム内でのポジションを失います。すると、2007年開幕直後に、突如オリックスへの金銭トレードが発表されました。移籍後も不調から脱することが出来ず、2007年は2試合、2008年は自身初の一軍登録なしでシーズンを終えます。すると、30歳の年で初の戦力外通告を受けました。

まだ現役続行にこだわる加藤康介は、12球団トライアウトを受験し横浜DeNAとの契約を勝ち取ります。同じ左腕の大投手・工藤公康との出会いで、プロの技を吸収すると中継ぎとしての適正を見せました。貴重なリリーフとして31試合に登板して、13ホールドなど復活の兆しを見せます。翌2010年も、49試合登板と鉄腕ぶりを発揮しましたが、防御率7.81に終わり、2度目の戦力外通告を受けてチームを去りました。

阪神時代、敗戦処理からセットアッパーに昇格して完全復活

横浜退団後、左の中継ぎ投手不足に悩む阪神が、救いの手を差し伸べます。移籍初年度は膝の故障でわずか4試合登板に終わりましたが、2012年、まさに底辺から這い上がりました。敗戦処理という心理的に難しいポジションながら、毎回好投して首脳陣の信頼を掴みます。同年は、41試合に登板して勝敗無しの7ホールドでしたが、防御率は圧巻の0.83という数字でした。2013年は、勝ちパターンのセットアッパーに定着すると、チームトップの61試合に起用されます。キャリアハイの登板数で、成績も2勝1敗1セーブ、16ホールド、防御率1.97と前年に続いて好調を維持しました。

3度目の戦力外通告を受けるも、独立リーグで輝きを放つ

過去に3年連続で活躍したシーズンはありませんでしたが、2014年も好スタートを切ります。16試合連続無失点など、阪神リリーフとして存在感を示しました。しかし、後半戦が始まると、ぎっくり腰を発症させるなど、一軍二軍を行き来する毎日となります。同年は32試合の登板に留まり、防御率も4.56と不本意な数字でした。復活を見せたい2015年は、シーズン前から股関節痛に悩まされます。怪我の症状は日常生活を脅かすほど深刻で、同年の登板は6試合と激減し、オフには自身3度目の戦力外通告を受けました。

それでも、加藤康介は現役続行にこだわります。手術を回避してまで、新たなフォームを修得し、合同トライアウトに参加しましたがNPB球団から獲得の手は挙がりませんでした。それでも、独立リーグ・福島ホープスから声がかかります。年齢的にも、選手兼任コーチとして入団すると、33試合登板して防御率1.91という好結果を残しました。2017年も、同球団でプレーし、ロッテに同期で入団した渡辺俊介とともに、NPB以外で懸命に汗を流しています。


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