名前田代富雄(タシロトミオ)
生年月日1954年7月9日
日本
出身神奈川県
プロフィール藤沢商業高校時代は、甲子園出場経験無し。

1973年ドラフト3位で内野手として大洋入団。1975年イースタンで首位打者と打点王の2冠獲得。1976年から一軍で、1977年に35本塁打を打ち「オバQ」の愛称で一躍売り出した。豪快な本塁打とともに、三振が多いのも特徴。

1980年自己最多の36本塁打をマーク。1986年、左手首を骨折は打撃を狂わせて不振に陥る。1989年から度々2軍落ちし、1991年引退。

同年茅ケ崎市に「田代ラーメン」をオープン、1992年野球解説者に。1997年横浜コーチに就任すると、多くの打者を育成。2009年時は、大矢明彦監督の休養に伴い、一軍監督代行として指揮を執る。

2011年韓国プロ野球SKワイバーンズコーチ就任。2012年から、楽天コーチに就任して、2013年の球団創設初の日本一に貢献。2016年からは巨人ファーム巡回打撃コーチに就任。2016年二軍打撃コーチ就任。

通算成績は1,526試合、4,961打数1,321安打、278本塁打、867打点、29盗塁、打率.266。藤沢商卒、右投右打、185cm、88kg

甲子園県予選敗退後に運命が変わり、プロ野球入りが実現

田代富雄は、神奈川県小田原市に生まれ、小学生時代からソフトボールを始めます。中学に進学すると、エースで4番というチームの中心的存在となりました。地元の高校進学を考えていましたが、藤沢商業高校の野球部監督から強く勧誘されます。すると入学早々に、1年生で4番を任されて、甲子園出場を目指しました。1年夏は、準々決勝で大敗しましたが、2年時はベスト8の壁を突破して準決勝に進出します。当時、三塁手を守っており、リードして終盤を迎えましたが、自身が満塁からエラーを犯し決勝行きを逃しました。

3年最後の夏は、4回戦で敗退して甲子園出場という夢は泡と消えます。その後、大学進学を考えていましたが、秋に父が死去したことで、その進路は大きく変わる事になりました。突如一家の大黒柱となった田代は、プロ野球もしくは社会人野球の二択となります。高校通算42本塁打という長打力も大きな決め手となって、1972年ドラフト3位で大洋ホエールズへ入団しました。

3年目にファーム2冠王獲得も、トレード放出候補となる

大洋球団は、新人の田代富雄に対して、天秤打法で一時代を築いた近藤和彦の背番号26を与えます。しかし、球団の期待とは裏腹に打撃不振に陥り、入団から2年間一度も一軍試合に出場できませんでした。しかし2年目オフ、大下弘コーチの打撃指導を受けると、自信が芽生えます。3年目はイースタンリーグで安定した打撃成績を披露して、首位打者と打点王の2冠王を獲得しました。

ファームで好結果を残すも3年目も一軍出場ゼロに終わると、巨人からのトレード打診を受けます。当時の秋山登監督は前向きでしたが、選手兼任コーチだったクリート・ボイヤーが強く引きとめたことで一転しての残留が決まりました。

松原誠に続く日本人長距離砲として、低迷するチームを支える

プロ4年目の1976年、開幕第2戦に7番三塁手として先発メンバーに抜擢されます。すると、同試合で初安打、初打点を記録して、ついにプロ野球人生をスタートさせました。7月には初本塁打も放つなど、同年はいきなり89試合に出場します。一軍の水に慣れると、翌1977年には開幕から5試合連続本塁打を放つなど、4月の月間MVPを奪いました。同年は、130試合にフル出場し、打率.302、35本塁打、88打点という好成績を残します。主に5番打者を任されて、チームにとっては松原誠に続く待望の日本人大砲となりました。

1979年には、前年に球団創設初の日本一を達成したヤクルトを相手に、開幕戦で3打席連続本塁打を放ちます。同年は、自身現役時代の最高位となったリーグ2位に大きく貢献しました。1980年は、ともにリーグ2位の36本塁打、94打点を記録します。同年限りで松原がチームを去ると、翌年からはチームの4番として君臨しました。9年間で8度の20本塁打以上達成と継続して長打力を発揮します。しかし、打率3割達成は、初めてレギュラーとなった1977年の一度きりで、リーグワーストの三振王も3度喫していました。

左手首怪我で一気に低迷し、通算300本塁打に届かず現役引退

松原誠の持つ球団記録の330本塁打の更新は、時間の問題だと思われました。しかし、プロ14年目の1986年、一塁守備時に打者走者の正田耕三と激突し、左手首を骨折します。すると、この怪我の影響で田代富雄の出場機会は激減し、フル出場はおろかシーズン100試合出場もできなくなりました。

1987年には、10年間続けた二桁本塁打も途切れ、1989年には、一軍定着後初の0本塁打に終わります。結局、現役生活最後の5年間でわずか10本塁打しか積み上げられず、確実と思われていた300本塁打にも届きませんでした。1991年限りで、ユニフォームを脱ぎましたが、引退試合では満塁本塁打を放つというアーチストらしい引き際を見せます。通算278本塁打を記録しましたが、打撃タイトルには縁がなく、同時期に掛布雅之(阪神)や衣笠祥雄(広島)がいたためベストナインも一度も受賞できませんでした。

指導者として、村田修一、内川聖一を始め多くの右打者を育成

引退後は、解説者を務める傍ら、「田代ラーメン」を経営という実業家にも転身します。1997年からは古巣の打撃コーチに就任して、指導者としてのキャリアもスタートさせました。特に自身と同じ右打者育成には定評があり、10年以上の間に、村田修一、内川聖一、吉村裕基、多村仁志、金城龍彦ら多くの打者を育成しました。また2009年には、大矢明彦監督の無期限休養に伴い、監督代行として107試合の指揮を執ります。しかし、当時は暗黒時代真っ只中にあり、チームの建て直しが出来ずに最下位に終わりました。

韓国野球指導も経験し、楽天時代には球団創設初優勝に貢献

2011年にはSKワイバーンズコーチに就任して、韓国プロ野球へも指導者として貢献します。2012年から東北楽天ゴールデンイーグルスのコーチに就任すると、翌2013年に、選手、指導者時代を通じて初めて一軍でリーグ優勝、日本一を味わいました(1998年の横浜優勝時は、二軍コーチ)。2016年からは、かつてトレードの可能性のあった読売ジャイアンツのファーム巡回打撃コーチに就任します。田代富雄の加入が、チーム最大の補強とまで言われるほど、指導者として評価されています。


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