名前 | 大沢啓二(オオサワケイジ) |
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生年月日 | 1932年3月14日 |
国 | 日本 |
出身 | 神奈川県藤沢市 |
プロフィール | 高校で甲子園に出場。立教大学では六大学リーグ初優勝。2年後輩に立教三羽烏と称された長嶋茂雄、杉浦忠らがいる。
1956年南海に入団。1959年日本シリーズで4連勝。1965年東京オリオンズ(現・千葉ロッテ)に移籍。その後コーチを経て、1971年に二軍監督から一軍監督に昇格。同年2位に入り悪分5年契約。1972年、5位に低迷して契約解除される。 次いで日本ハムの監督となり、最下位に近かったチームを育てて、2年連続3位。1981年念願のリーグ優勝を達成。1983年監督を辞任。のち日本ハム球団常務となり、1992年秋監督に復帰。1994年シーズン終了後辞任。 1996年日本プロ野球OBクラブ会長。「プロ野球ニュース」などで野球解説者として活躍。1998年にはNHKドラマ「物書同心 いねむり絞蔵」にも出演。TMS系「サンデーモーニング」でも張本勲とのコンビで出演。2010年9月、享年78歳にて永眠。 通算成績は988試合、2,075打数501安打、17本塁打、191打点、38盗塁、打率.241。最多安打1回、本塁打王1回、最高出塁率1回、盗塁王2回、MVP1回。商工高卒、立教大学卒、右投右打、173cm、77kg |
野球で更生すると甲子園を経験し、立教大学初優勝に貢献
大沢啓二は、神奈川県藤沢市に生まれ、幼少期から暴れん坊でならします。素行が悪く、平塚工業高校を中退しましたが、兄の母校・神奈川県立商工高校に編入しました。同校でその情熱を野球に注ぐと、2年時にエースとしてチームを甲子園に導きます(2回戦敗退)。最終学年時は県予選で敗れましたが、試合後に審判に暴行を働くというヤンチャぶりでした。
しかし、その審判からまさかのスカウトを受けて立教大学へ進学します。1953年には東京六大学リーグにおいて初優勝、さらに全日本大学選手権優勝を実現しました。その後は、早稲田、明治に後れを取り、在学中の優勝は1度きりとなります。2年後輩には、後に立教三羽烏と称された長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾らがいました。
南海ホークス選手時代は、頭脳的な外野手として大きな存在感
1956年、鶴岡一人が監督を務める南海ホークスへ入団します。当時は毎年優勝を争う常勝軍団でしたが、ルーキーから外野手ポジションを奪いました。しかし、打撃での貢献が中々できず、プロ初年度の145試合出場がキャリアハイとなります。それでも時には内野手も務めるなど、堅守のプレイヤーとして存在感を示し準レギュラーを務めました。
その堅守が特に注目されたのは、1959年の巨人との日本シリーズです。立教の後輩・杉浦忠が4連投4連勝してMVPを奪いましたが、鶴岡監督は大沢啓二を影のMVPと評しました。現代野球では当たり前とされている、打者によって守備位置を変えるプレーを初めて披露したのが同シリーズの大沢です。中堅手として出場した大沢は、通常の守備位置から実に30メートルも右中間よりに守ることもあれば、遊撃手のすぐ後ろに守って、通常ならヒットという当たりを難なくアウトにしてみせました。
ロッテ監督として長期政権スタートも、わずか1年で解雇
1962年から出場試合数が100試合に満たなくなり始めると、1965年に東京オリオンズに移籍します。同年現役引退するもチームに残り、コーチに就任して指導者生活をスタートさせました。1969年から二軍監督に抜擢されると、イースタンで優勝するなど即手腕を発揮します。すると1971年シーズン途中、濃人渉と交代する形で初めて一軍監督となりました。
監督着任したシーズン後半で猛攻を見せて、首位と3.5ゲームの2位に迫る見事な立て直しを見せます。その功績が評価されて、オフには異例の5年契約を締結して長期政権が約束されました。1972年シーズン、ベテランながらチームの顔でもあった榎本喜八、江藤慎一を放出して守り重視のチーム作りに着手します。しかし、狭い東京球場で投手陣が打ち込まれるなど大きく低迷して5位に転落すると、わずか1年で5年契約を破棄されて監督退任となりました。
低迷する日本ハムを復活させて、19年ぶりのリーグ優勝を実現
その後解説者を経て、1976年からは日本ハムファイターズ監督に就任します。チームは水原茂監督時代の1962年に初優勝を飾って以来、優勝から遠ざかり、当時8年連続Bクラスと低迷していました。さらに就任直前には、中心打者・張本勲もトレードで不在となるなど、逆風だらけの船出となります。しかし、日本ハム球団の大社義規オーナーから絶大の信頼を置かれ、大胆なチーム改革を許されました。
選手層の薄いチームは、最下位こそ脱出しましたが2年連続5位と低迷を抜け出せません。しかし、宣言どおり長期政権を任された大沢啓二は、少しずつチーム作りを進めました。エース高橋直樹、新外国人ミッチェルという投打の軸ができあがると、2年連続3位と復活の兆しを見せます。1980年には、新人の木田勇が投手タイトルを独占する活躍、柏原純一、ソレイタ、クルーズのクリーンナップが活躍して後期優勝に後一歩まで迫りました。すると同年オフ、高橋と江夏豊の交換トレードを敢行して、江夏をリリーフエースに固定します。翌1981年は初の後期優勝さらにはプレーオフも制して、19年ぶり2度目のリーグ優勝を手にしました。日本シリーズでは巨人に敗れましたが、1982年も後期優勝と結果を残します。べらんめえ口調から「親分」として親しまれ、退場処分も多くありましたが、パ・リーグの注目度アップに大きく貢献しました。
第2期日本ハム監督時代も、西武と激しい首位争いを見せる
1993年、9年ぶりに日本ハム監督に復帰します。前年まで4年連続Bクラスと、前回同様にチームは低迷していました。しかし、金石昭人をリリーフに転向、広瀬哲朗をレギュラーおよびキャプテンに抜擢など大胆な選手起用で、一気に優勝争いするまでに復活させました。最終的には西武ライオンズに、1ゲーム差でかわされましたが、翌年に期待を抱かせます。ところが、1994年は、全く投打がかみ合わず、あらゆる数字でリーグ最下位をたたき出し、リーグ5連覇を飾った西武と28.5ゲーム差の最下位に沈みました。あまりの低迷振りに、同年で大沢啓二は監督を退きます。本拠地最終戦では、ファンの目の前で土下座してわびるという異例のシーンもありました。
以後、ユニフォームを着ることはなく、日本プロ野球OBクラブの理事長、名誉理事長などを歴任します。もちろんプロ野球を愛する気持ちは一向に衰えず、張本勲とともにレギュラー出演していたTBS系「サンデーモーニング」でも親分として存在感を示しました。しかし、2009年ごろからから胆嚢癌を患い、2010年9月、享年78歳にして静かにこの世を去ります。1週間後の通夜には、1200人もの関係者が参列して死を悼むという人望の厚さを証明しました。