中部銀次郎について
名前 | 中部銀次郎 |
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生年月日 | 1942年2月16日 |
国 | 日本 |
出身 | 山口県下関市 |
プロフィール | 大洋漁業の“中部一族”で、副社長の中部利三郎の二男に生まれ、恵まれた環境の中で兄の一次郎、弟の幸次郎と共に早くからゴルフに親しむ。甲南大在学中の昭和37年日本アマチュアゴルフ選手権に優勝、以来計6度のアマ日本一になる。学生ゴルフ選手権にも2連覇。世界アマにも4回出場、40年のアジア・アマ選手権では個人第1位を占めて日本を団体優勝に導いた。以後、約四半世紀の間日本のトップ・アマとして活躍。42年の西日本サーキットでは日本のトップ・プロたちを押えて優勝、プロより強いアマチュアといわれた。日本のアマゴルフ界に欠かせぬ指導者の一人。一方40年大洋漁業に入社、のち系列の日新タンカー専務、大東油業副社長、日新タンカー会長、大東油業社長など歴任。著書に「もっと深く、もっと楽しく」(昭62)がある |
幼少期よりゴルフに親しむ
中部銀次郎が生まれたのは戦中の1942年でした。現在では小学生から親しまれるスポーツであるゴルフですが、この頃は大人のスポーツ。膨大な費用が掛かるため、子供がするのは一般的ではありませんでした。しかし、中部は兄たちとともに小学生のころからゴルフを嗜むようになります。
中部がゴルフを早い時期から始められた最大の理由はその家庭にありました。というのも中部の父は大洋漁業(現マルハニチロ)の副社長である中部利三郎。大洋漁業の経営を担っていた中部一族の、中心人物の三男坊でした。そのため、中部は二人の兄たちとともに早くからゴルフをすることができ、その優雅な生活が中部のゴルファーとしての腕を磨く理由になりました。
上の兄二人よりもゴルフの才能に優れていた中部は、高校に進学してもゴルフ一本。この頃のエピソードとして挙がるのが58年に行われた関西学生選手権です。当時下関西高校の2年生だった中部は、この大会に大学生に交じって参加。多くの大学生が高校や大学に入ってからゴルフを始めたばかりという中で、小学生のころからゴルフを嗜んでいた中部はエリート中のエリート。そのため、中部は並み居る大学生たちを尻目に高校2年生ながら優勝を飾り、一躍その名を轟かせることになりました。
アイゼンハワートロフィーでの衝撃
高校生離れしたゴルフセンスを持っていた中部銀次郎。大学進学にあたっても、当然ゴルファーとして才能を発揮できる学校を選びます。将来の事業を継ぐことも考えた際、中部にとってベストな選択はエリートばかりが集う慶應大学でしたが、当時の慶應大学のゴルフ環境は今一つ。練習場が遠く、キャンパスのある都心から練習場が遠いことで学業との両立が不可能と判断。そのため、中部は慶應大学への進学をあきらめ、一浪して別の大学に進学することを決断しました。
当時の中部は、大学卒業後にプロゴルファーになろうという野望を持っていました。アマチュア大会であれだけの実績を残したこともあり納得のいく進路ですが、浪人時代にアイゼンハワートロフィーの日本代表に選出され渡米した際に、その考えが変わってしまう出来事がありました。
日本のアマチュアゴルフ界で頂点に君臨し、プロに行っても活躍するであろうと考えられていた中部ですが、この大会に出場していたジャック・ニクラスのゴルフに衝撃を受けました。ドライバーの飛距離、パターの正確さなど、何から何までレベルが高いジャックのプレーを見て、中部は「自分の知らない世界にはこれだけスゴイゴルファーがいる」ということを思い知り、プロゴルファーとしてではなく、あくまでアマチュアゴルファーとしてのトップに立つことを目指すようになりました。
プロより強いアマチュアゴルファーに
アイゼンハワートロフィーが終わり帰国した中部銀次郎は、アマチュアゴルファーのトップに立つことを目標として、甲南大学へ進学。慶應大学とは異なりキャンパスとゴルフの練習場が近かったことで、授業が終わると練習場に足しげく通うになった中部は、ゴルフの腕をさらに上げていきました。そうして62年、自身20歳の年に迎えた日本アマチュアゴルフ選手権競技で優勝。以降、学生ゴルフの世界では無敵を誇り、学生ゴルフ選手権でも2連覇を達成しました。
大学4年生になり、卒業間際の64年にも日本アマチュアゴルフ選手権競技を優勝。これでプロ転向かと騒がれましたが、中部はあくまでアマチュアゴルファーのトップでいることを選択し、プロへの転向は否定しました。そして大学卒業後には父が務める大洋漁業の関連会社に入社し、サラリーマンとゴルファーとしての生活を並行させることにしました。その後も中部は日本アマチュアゴルフ選手権競技も優勝を続け、さらに65年にはアジア・アマ選手権では個人1位に輝いただけでなく、日本代表を団体優勝に導きました。
中でも中部が最も輝いたのは67年。日本アマチュアゴルフ選手権競技を優勝しただけでなく、西日本オープンでもプロを退けて優勝。いつしか中部は「プロより強いアマチュアゴルファー」と称されるようになりました。
四半世紀に渡り、トップを走り続ける
中部銀次郎は67年以降も日本アマチュアゴルフ選手権競技を74年、78年と優勝を積み重ねて、学生時代から合わせて6度優勝とアマチュアゴルファーとして大活躍。
一方で事業の方も順調で大洋漁業に入社後はのちに系列の日新タンカー専務、大東油業副社長、日新タンカー会長、大東油業社長など歴任しました。
しかし、59歳になった01年、食道がんにかかり59歳にしてこの世を去りました。しかし、四半世紀にわたってアマチュアゴルファーのトップを走り続けていた中部の功績は今もなお不滅のものです。