山崎一夫について

名前 山崎一夫
生年月日 1962年8月15日
日本
出身 東京都港区
プロフィール 中学時代はバレー、高校では柔道と陸上の選手として活躍。昭和56年新日本プロレスに入門。57年5月対ブラックキャット戦でデビュー。同年タイガーマスクの付き人に抜擢される。58年スーパータイガージム設立に参画。59年7月第一次UWF無限大記念日に特別参戦後、UWFに正式入団。60年UWF軍団の一員として新日本プロレスへの参戦を中心に活躍。62年藤原喜明と組み、IWGPタッグ王座獲得。63年5月新生UWF設立、前田日明、高田延彦と共に活躍。平成3年5月高田と共にUWFインターナショナルの旗揚げ。7年7月フリーとなり、8月新日本プロレスに出場。9年8月IWGPタッグ王座獲得。11年新日本プロレス入り。プロレスに本格的なキックを取り入れたことで注目された。通称山ちゃん。12年1月気管支拡張症および肺挫傷のため引退。同年鍼灸整体の治療院・山崎バランス治療院を開業。著書に「やまちゃんがいっちゃった!」がある

中学時代からプロレスの世界に憧れる

山崎一夫が生まれ育ったのは東京都港区の麻布十番。間もなく、世田谷区に引っ越しました。このプロフィールを見ると上流階級の出身かと思わされますが、山崎の子供のころは特に何もない街だったと述懐していました。山崎の少年時代にはアントニオ猪木やジャイアント馬場が大成し始めた時期だったためか、プロレスラーになりたいという夢を中学生のころから抱き始めます。

その夢を中学生時代の友人に打ち明けたところ、山崎は新日本プロレスの道場入門を勧められます。そこの練習生として加入した山崎は、当初ベンチプレスが挙げられないほど貧弱な少年でしたが、次第に筋力を増していきました。高校進学時には持ち前のパワーを生かして、柔道部に所属。さらに俊敏な動きをするために陸上部にも所属するというマルチな才能を早くも発揮していました。

この頃から山崎のストイックな練習法は相変わらずで、プロレスラーの練習法を実践すべく、スクワット1000回、ベンチプレス130キロを持ち上げるのを日課にするなど、そのパワーはもう学生の範疇を超えていました。
この努力が実り、高校卒業後の81年には新日本プロレスへの入門が許されました。そして翌年の82年5月、対ブラックキャット戦でデビューを果たし、晴れてプロレスラーの仲間入りを果たしました。

初代タイガーマスクの付き人になったことが転機に

念願かなってプロレスラーになった山崎一夫。そのストイックなスタイルや厳しい練習を耐える姿を見た先輩レスラーから気に入られ、間もなく山崎は初代タイガーマスクの付き人を務めるようになります。山崎より5学年上と比較的年齢が近かったタイガーマスクと山崎との関係は良好で、付き人と言うほど堅苦しいものではありませんでした。またタイガーマスクのファイトスタイルは、この後山崎にも大きな影響を与えていくことになります。

山崎は細身な体形ながら、同時期の若手レスラーである高田延彦と熱戦を繰り広げていました。どちらもミサイルキックを得意としていただけに、高田との試合は「青春のミサイルキック合戦」と言われるようになりファンからの注目を集めました。

そして83年、付き人を務めていたタイガーマスクがスーパータイガージムを設立すると山崎もそれに参加。ここで山崎はインストラクターを務め、早くも指導者としてのキャリアを積むことになりました。

翌84年の7月、タイガーマスクが第1次UWFに参戦すると、その後を追うかのように山崎も入団。山崎はここで、高田延彦、前田日明、藤原喜明、木戸修らとともに活動するようになります。85年にはUWF軍団の一員として新日本プロレスへの参戦を中心に活躍しはじめます。しかし、この年の12月にUWFは崩壊することになり、山崎たちは古巣の新日本プロレスへと復帰することになりました。

UWFのファイトスタイルを持ち込む

やがてタイガーマスクが引退しますが、山崎一夫はその後も新日本プロレスに在籍。87年には藤原喜明とともにタッグを組んで、IWGPタッグ王座を獲得するなどレスラーとしても頭角を現すようになりました。そして88年、新日本を一足早く退団していた前田日明が第2次UWFを旗揚げすると、かつてのメンバーとともに山崎もこちらに加入。以来、主要メンバーの一人として活躍するようになります。高田延彦や藤原と比べるとさほど目立った存在ではなかった山崎がファンに認識されたのは、この第2次UWFともいわれるほどになりました。

しかし、間もなく第2次UWFは崩壊。今度は91年に高田が旗揚げしたUWFインターナショナルに参戦し、強豪外国人とのメインマッチに積極的に参加します。しかしこの頃の山崎はいわゆる不遇の時代と呼ばれる時期で、さほど活躍ができずにいました。

95年の7月に山崎は退団してフリーになると、さっそく古巣である新日本への殴り込みを表明。8月にはリングに上がりました。この頃から勢いづいた山崎は96年には突然卍固め興行でアントニオ猪木&高田延彦VS藤原喜明&山崎一夫という豪華なタッグ戦に出場。ここで山崎は猪木相手にフォール勝ちという大金星を挙げます。ちなみにこの試合は猪木が現役最後に喫したフォール負けとしても知られています。

さらに98年のG1 CLIMAXでは藤波辰爾、佐々木健介、蝶野正洋という過去のG1タイトルホルダーを相手に互角の勝負を演じて、決勝に進出。橋本真也との決勝戦は惜しくも敗れましたが、UWF系と称される打撃や投げ技、そして締め技など力と力のプロレスを見せるという姿勢にファンは感動し、惜しみない拍手を送ったことでも知られています。

新日本のタッグマッチの花形を務める

山崎一夫はキャリアハイとも言える戦いを終えた後、タッグ戦線での活躍が増えていきました。
山崎がタッグを組んだ選手は橋本真也、飯塚高史、佐々木健介、そして永田裕志、木戸修ら。もともと新日本はタッグの名勝負が少ないと言われていましたが、山崎&飯塚組と蝶野正洋&天山広吉組のタッグ戦は毎回のように名試合になるため、ファンのお楽しみのマッチメイクとなりました。

しかし、山崎もまた故障には勝てませんでした。00年の1月、気管支拡張症および肺挫傷を患ったために現役を引退。その後はプロレス解説者としての地位を築きました。


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