名前上田佳範(ウエダヨシノリ)
生年月日1973年11月18日
日本
出身長野県松本市
プロフィール小2の時松本北リトルリーグに入団。松本市立旭中を経て、松商学園高に進学。

松本シニアリーグでは1987年全日本選抜メンバーとしてハワイに遠征。1991年春の選抜で3試合連続完封、35イニング無失点記録を達成し、準優勝。同年夏の甲子園ではベスト8、国体では優勝。

1992年ドラフト1位で日本ハムに入団するが、1年目に右肩を故障、1993年打者に転向。1995年、一軍初出場を飾ると鉄壁な外野守備を武器に一軍定着。打撃が課題でしたが、1997年には規定打席に到達して打率3割を達成。

翌年から再び打撃不振に陥るも6年連続100試合出場。その後、打撃向上できず、ライバルも台頭して出場機会を失う。2005年オフに戦力外通告。

12球団トライアウト、さらには中日の入団テストを受けて中日入団。移籍初年度に、外野手準レギュラーとして意地を見せるも、2年目から出場機会を減らし、2008年オフ、現役引退。

2009年から中日コーチ就任(~2015年)。2016年からは横浜DeNAコーチ就任。

通算成績は1,027試合、2,058打数486安打、37本塁打、192打点、36盗塁、打率.236。松商学園高卒、188センチ、80キロ。右投左打

甲子園に彗星のごとく現れ、高校野球史に残る死闘を演じる

上田佳範は、長野県松本市に生まれ、松本北リトルリーグで野球を始めます。松本シニアリーグではトップレベルの実力をつけて、地元の古豪・松商学園高校に進学しました。1、2年時の夏予選はともに3回戦負けでしたが、2年秋からの新チームは総合力でほかを圧倒します。秋季大会、さらには北信越大会で優勝して、3年春のセンバツ出場を決めました。当初は打線が評価されていた松商学園でしたが、エース上田が圧巻のピッチングを披露します。初戦でイチローが投手を務める愛工大名電に勝利すると、次々と優勝候補を蹴散らしていきました。しかも、天理、大阪桐蔭、国士舘相手に3試合連続完封し35イニング連続無失点でチーム63年ぶりの決勝へ到達します。しかし広陵との古豪対決では、連投の疲れから途中マウンドを譲り、サヨナラ負けで涙を呑みました。

夏は調子を落としましたが、スケールアップした打線を軸に春夏連続出場を果たします。1回戦、2回戦を連続完投勝利すると、四日市工業高校との3回戦は高校野球の歴史に残る名勝負となりました。井手元健一朗投手との壮絶な投げ合いが展開されて、3-3のまま延長戦に突入します。双方一歩も引くことなく進み、16回裏松商学園の攻撃に意外な結末が待っていました。1死満塁というチャンスを作り、奇しくも上田が打席に入ります。すると井手元の238球目が死球となりサヨナラ押し出しとなりました。しかし、その死球は上田の利き腕の肩に当たったことで、翌日の試合に不安がよぎります。志願して登板しましたが、2年生松井秀喜率いる星陵高校に2-3で敗れて甲子園を去りました。

投手としてドラフト1位入団も故障し、2年目に野手転向

春夏連続で甲子園の話題を独占した上田佳範は、秋の国体で優勝し、注目の中ドラフト会議を迎えます。即戦力と噂された若田部健一、斎藤隆、田口壮ら3人の大学生に、8球団の指名が集中しました。日本ハムは、田口の抽選を外すと、外れ1位で上田を指名します。打撃力も評価されていましたが、投手として指名されてプロの門を叩きました。

高卒ルーキーは、まずファームスタートとなり初勝利を地元で飾ります。しかし、高校時代の酷使に加えて、肘を故障したことでルーキーイヤーの一軍登板はありませんでした。故障は上田の投手生命を奪い、プロ2年目の1993年、打者転向を決意します。もともと打撃にも定評があったことと、強肩をいかすためにも外野手として生き残りをかけました。

鉄壁な外野守備で一軍定着し、広角打法で打率3割もマーク

入団3年間で一軍試合出場は一度もなく、打者練習に専念します。その間、チームの指揮は大沢啓二に代わり、1993年は王者西武ライオンズと僅差の優勝争いをしましたが、1994年は一転して最下位に終わっていました。大沢は2年で監督を退き、後任には阪急ブレーブスで黄金時代を築き上げた名将・上田利治が着任します。上田監督は、若手切り替えを強力に進め、4年目の上田佳範を外野手として抜擢しました。

1995年、同じく若手の井出竜也とともに積極的に起用されると、鉄壁の守りで首脳陣の期待に応えます。打撃では貢献できませんでしたが、広い守備範囲に鉄砲肩で一軍に定着しました。1997年には、広角打法を修得して生まれ変わったかのようにヒットを量産します。規定打席にもギリギリ到達させて、自身初の打率3割を達成しました。

打撃不振に強力ライバルの台頭で、完全に出場機会を失う

そのまま不動のレギュラー定着といきたいところでしたが、再び打撃不振に陥ります。守備力は安定しているため、毎年100試合以上の出場は確保しましたが、次第に守備固めのみでの起用が多くなりました。ライバルも台頭し、焦る気持ちからさらに打撃の調子を落とすと、二桁試合出場が続きます。2004年には新庄剛志、2005年には稲葉篤紀が加入し、さらに森本稀哲の登場で外野手3人が固定されると、上田の出番は完全になくなりました。

戦力外通告後、中日へ移籍するも一軍定着できず現役引退

2005年はわずか11試合出場に終わると、オフには戦力外通告を受けます。上田佳範は現役続行を希望して、12球団トライアウトに参加しました。その後、日本ハムでともに戦った落合博満が監督を務める中日ドラゴンズへテスト入団します。移籍初年度、序盤にスタメン出場機会を得て、外野守備で存在感を見せました。しかし、やはり課題の打撃における貢献度が低くレギュラー定着とはなりません。一軍二軍を往復する日々が続き、同年は59試合出場に終わりました。

翌年は23試合出場とさらに出番を減らすと、2008年はほぼ二軍暮らしとなります。そして同年9月、ついに現役引退を決意しました。引退試合として1試合に出場した試合が、唯一の一軍出場となります。投手として入団し、打者転向して通算1000試合出場を達成しましたが、規定打席到達は1997年の1シーズンだけに終わりました。

選手生活にピリオドを打つと、そのまま中日に残りコーチ生活をスタートさせます。二軍在籍が長かったことや、外野守備におけるセンスが評価されて、7年間を様々な形で歴任しました。2016年からは、横浜DeNAベイスターズの一軍外野守備走塁コーチとして腕を振るっています。


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