名前 | 黒田一博(クロダカズヒロ) |
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生年月日 | 1924年9月13日 |
国 | 日本 |
出身 | 長崎県佐世保市 |
プロフィール | 佐世保商業高校卒業に、軍役生活。
青木産業、八幡製鉄(現・新日鉄八幡)を経て、1949年南海に入団。6番・センターとして南海V3に貢献。のち高橋、トンボ、大映を経て、1957年引退。 1958年スポーツ用品店の黒田スポーツを開店。一方、次男・博樹が小学校5年のとき、硬式野球チーム・オール住之江を結成して、中学卒業まで英才教育を施し、1996年ドラフトで広島に2位指名される。 通算成績は777試合、2,348打数578安打、32本塁打、247打点、35盗塁、打率.246。佐世保商卒、右投右打、176cm、73kg |
兵役を終えてノンプロで野球を再開すると、国体で活躍
黒田一博は、1924年、長崎県佐世保市で生まれます。佐世保商業高校で野球をするも、卒業後に軍役生活を強いられました。終戦後、地元長崎に戻り、青木産業のチームに所属し、軟式野球を再開します。国体でチームを決勝進出に導くなど活躍すると、社会人野球の強豪・八幡製鉄(現・新日鉄八幡)に移りました。
25歳で南海ホークスに入団し、得意の守備で出場機会を掴む
1949年、自身25歳のとき、南海ホークスへ入団してプロ野球選手となります。当時は1リーグ制で、選手兼任監督の鶴岡一人中心に戦っていました。チームは少数精鋭で、1946年に初優勝、1948年も優勝していましたが、オフにエース別所毅彦に引き抜かれます。一気に戦力ダウンを強いられたという年に、黒田一博はチームの一員となりました。
選手層が薄かったこともあって、守備力の高い黒田は、中堅手として出場を増やしていきます。シーズントータル数の半分にも満たない51試合出場でしたが、その中でも打率.324を残し、強肩で存在感を見せました。チームは、別所不在も大きく勝率5割で、8チーム中の4位に沈みます。プロ野球界は再編が進み、セ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団に拡大して、南海はパ・リーグに加盟しました。
中堅手レギュラーとして、堅い守りでチームの3連覇に貢献
1950年、2リーグ制元年は、チーム同士の戦力差が激しく、多くのゲーム差が開きます。パ・リーグは、毎日オリオンズが独走し、南海ホークスも勝ち越し17の勝率.574でしたが、オリオンズから15ゲーム離される2位に終わりました。黒田一博は、6番三塁手としてレギュラーを掴み、全120試合中の111試合に出場します。打率.257と低打率ながらも、22本の二塁打に、9本塁打と長打力を見せました。
1951年は、再び外野手に転向して、堅守でチームを支えます。南海は、100万ドルの内野陣と言われた守備力を中心に、スモールベースボールで勝利を積み重ねました。前年の雪辱を晴らして、2位西鉄ライオンズに18.5ゲーム差をつける圧勝優勝を実現します。黒田は、2年連続で規定打席に到達するなど主力として貢献しました。その後、チームの戦力が均衡して、優勝争いは僅差となります。それでも、不動の外野手レギュラーとして、チームをリーグ3連覇に導きました。日本シリーズでは、3年連続で巨人と対戦しましたが、ことごとく敗れます。黒田も3度ともほぼ試合に出場しましたが、勝利の美酒を味わえませんでした。
新規球団の高橋ユニオンズへ移籍すると、2年間主力を務める
1953年当時、パ・リーグは7チームと奇数だったため、1球団は必ず試合がない日がありました。この状況を打破するために、1球団増やす動きが具体化されて、高橋ユニオンズが発足しました。当然、選手不足という大問題が勃発し、各チームから供出されることになります。南海ホークスは、ベテラン笠原和夫とともに、外野手レギュラーの黒田一博を放出して他球団を驚かせました。
しかし、黒田はその悔しさを胸に新球団で主力となります。1954年シーズン、黒田は3番中堅手として132試合に出場し、キャリアハイの118安打を放ちました。新興球団で苦しい戦いでしたが、8チーム中の6位でシーズンを終えます。翌年チームは、トンボ鉛筆と提携して、トンボユニオンズと改称します。黒田は前年に続いて主力として129試合に出場しましたが、戦力差は否めず圧倒的な最下位に転落しました。1956年は、同じくパ・リーグで低迷する大映スターズへ移籍します。しかし、自身3球団目ではレギュラーを奪うことなく、35試合の出場に終わり、同年で現役引退しました。
次男・博樹をプロ選手に育て、メジャー姿を見ることなく永眠
1958年からは、大阪市でスポーツ用品店「黒田スポーツ」を開店します。そして、東京オリンピック砲丸投げの選手候補にもなった妻・靖子との間に、次男・博樹が生まれました。小学5年生の頃、ボーイズリーグ・オール住之江を設立すると、自らが監督に就任します。同チームには、後にプロ入りした川井貴志、田上秀則らも在籍していました。父が監督で、息子が選手という体制のため、博樹には特に厳しく指導を施します。こうして、中学卒業までの間、英才教育を施し、親子2代揃ってのプロ野球選手を目指しました。
上宮高校進学後も、両親の厳しい教育は続き、精神力が鍛えられます。高校時代は控え投手の域を抜け出せませんでしたが、専修大学時代に大きく才能を開花させました。東都リーグ注目の投手に成長し、1996年ドラフト会議では広島東洋カープを逆指名して入団します。親子2代でのプロ野球選手が誕生すると、ルーキーイヤーから一軍で起用されました。2001年からは当たり前のように二桁勝利を記録して、低迷するチームのエースを担います。2006年にはFA権を獲得しましたが、FA宣言せずに1年間チームに残留しました。
熱いファンの後押しがありましたが、実は父・一博は肺がんを患い闘病生活を送っていたことも残留の大きな要因でした。2002年に母を癌で亡くしていたこともあって、闘病を支えたいという強い気持ちを持ちます。しかし、2007年8月に一博は永眠し、同年オフに海を渡ってメジャー挑戦を表明しました。一博の息子・博樹は、メジャーでも成績を残して、古巣広島に凱旋復帰し、チームを優勝に導いて引退しました。