名前柴原洋(シバハラヒロシ)
生年月日1974年5月23日
日本
出身福岡県北九州市
プロフィール幼少の頃から野球を始め、小中高と地元で過ごす。北九州高校時代はエースで4番も甲子園出場経験無し。

福岡六大学リーグでは、チームの中心打者推して7度優勝して6度のベストナイン受賞。3年秋には3冠王獲得。1994年の国際親善野球キューバ戦、日米大学野球最終戦などでユニバーシアード福岡大会代表入り。1995年春のリーグ戦では打点20でタイトルを取り、ベストナイン入り。秋には首位打者、本塁打王、打点王にMVP獲得。リーグ戦通算21本塁打。

1996年ドラフト3位でダイエーに入団。2年目に外野手レギュラーを奪うと、リーグ4位の打率.318をマークし、ベストナイン受賞。その後も1番中堅手に定着し、1999-2000のリーグ連覇、2003年の日本一に大きく貢献。2003年オフには、秋山幸二から背番号1を引き継ぐ。

2004年から、腰痛が持病となり出場機会を減らし始める。2007年、4年ぶりに規定打席到達。2008年以降は、徐々に出場機会を失い2011年限りで現役引退。

通算成績は1,452試合、4,898打数1,382安打、54本塁打、463打点、85盗塁、打率.282。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞3回。北九州高校卒、九州共立大学卒、174センチ、77キロ。左投左打。

九州屈指の打者として、地元福岡ダイエーからドラフト指名

柴原洋は、福岡県北九州市に生まれ、幼少の頃から野球を始めます。父の指導により、右利きながら、左投げ左打ちの野球選手として練習を重ねました。そのまま地元で過ごし、北九州高校に進学すると、チームの中心的存在となります。エースで4番を任されましたが、3年間、甲子園には縁がありませんでした。

九州を出ることなく、九州共立大学へ進学すると福岡六大学屈指の選手となります。関東の大学リーグと比較するとレベル落ち感は否めませんが、大学4年間の8季で7度優勝し、6度のベストナインに輝きました。野手に専念した柴原は、打率.415、21本塁打、96打点で3年秋の3冠王含めて、首位打者4回、本塁打王3回、打点王4回、MVP2回という末恐ろしい成績をマークします。ユニバーシアード日本代表にも選出され、4年時には決勝で敗れましたが、全国大学野球選手権大会でも旋風を巻き起こしました。

1996年秋には、大学球界屈指の打者としてドラフトの上位指名候補となります。福岡ダイエーホークスは、逆指名制度で1位・井口忠仁、2位・松中信彦という有力打者の獲得に成功します。柴原も、中日ドラゴンズから高い評価を受けましたが、地元愛が強くダイエー以外の指名なら社会人に進むことを明言します。こうして3位で指名されて、後に球団史上最高と言われたドラフトとなりました。

プロ2年目に外野手レギュラーを奪い、ベストナイン受賞

ルーキーとして唯一開幕一軍入りを獲得しましたが、アマチュアとの大きなレベル差に苦しみます。それでも開幕戦から代走で初出場し、7試合目には先発していきなり初本塁打を放つなど順調なスタートを切りました。しかし、一軍に定着することは出来ず、ルーキーイヤーの成績は66試合出場して、打率.159、1本塁打、2打点に終わります。しかし、プロのレベルを肌で感じたことで、翌年には早くもブレイクを果たしました。

前年のダイエー外野陣は、キャプテン秋山幸二、村松有人、大道典良の3人がレギュラーを務めており、1998年の開幕には、村松に代わって新外国人のトンプソンが出場します。しかしトンプソンは開幕から不調が続き、村松も成績を伸ばせないでいると、2年目の柴原洋が一気に台頭しました。シュアなバッティングで、後半にはチームの1番打者に定着します。同年は、そのままレギュラーとして打率.318(リーグ4位)、2本塁打、35打点、18盗塁の好成績で、チーム唯一のベストナインに選出されました。

不動の1番打者として、3度の優勝、2度の日本一に貢献

不動のリードオフマンに定着した柴原洋は、1999年も131試合に出場して、福岡ダイエーホークスとして初の日本一に貢献します。1番打者としては三振が多いタイプでしたが、俊足巧打に堅守でチームを牽引しました。2000年には、自身初のフル出場で、2度目の打率3割を達成します(打率.310でリーグ7位)。同年、日本シリーズで敗れましたが、見事なリーグ連覇を達成し、自身はベストナインとゴールデングラブ賞をダブル受賞しました。

2001年、2002年とフルに近い出場しましたが、2年連続100三振を喫するなど、荒いバッティングで数字を落とします。すると2003年は故障のため開幕に間に合わず、1番中堅手のポジションを村松有人に奪われました。しかし、主に8番右翼手としてスタメンに復帰すると、ダイハード打線として恐れられた打線の一角を担います。シーズン終盤には、1番に復帰して、打率.333、4本塁打、53打点の好成績で、チームのリーグ優勝、日本一奪還に大きく貢献しました。

故障やライバル大村直之の台頭で、ポジションを奪われる

2003年に3度目のゴールデングラブ賞を受賞するなど、球界を代表する選手となり、オフには秋山幸二がつけていた背番号1を譲り受けます。しかし、2004年から腰痛に悩まされることになり、成績も下降していくことになりました。2005年に、FA移籍してきた大村直之が1番中堅手に定着し、自身の出場は59試合に終わります。2006年、3年ぶりに100試合出場をクリアして復活を見せましたが、盗塁数は一ケタ台に落ち、打率も.270台と低迷しました。

FA権を行使せずに残留も、持病の腰痛には勝てず現役引退

2006年オフにFA権を取得しましたが、行使せずに残留して完全復活にかけます。2007年、主に6番打者を任されると、勝負強いバッティングを披露して4年ぶりに規定打席に到達させました。同年は、チーム2位の133試合に出場し、低迷からの復活を予感させます。しかし、柴原洋が100試合以上に出場したのは、これが最後となりました。

2009年、中軸として起用されながらも、持病の腰痛の状態は悪く96試合出場に留まり、翌年は37試合と大きく出場機会を減らします。2010年に、69試合出場に戻しましたが、同年は代打での出場がほとんどでした。2011年は、開幕から出番が遮られて、同年限りでの引退を決意します。不動のリードオフマンから、中盤以降はチャンスに強いポイントゲッターへとモデルチェンジに成功しましたが、怪我には勝てず、現役生活15年の幕を閉じました。背番号1は内川聖一に引き継がれて、将来の指導者として復帰することが期待されています。


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