小林聡について

名前 小林聡
生年月日 1977年8月21日
日本
出身 茨城県水戸市
プロフィール 平成7年茨城県大会の2回戦まで進む。長身から投げ下ろす速球とカーブが魅力の本格派。8年ドラフト6位で巨人に入団。11年シーズン終了後、引退。通算4年、1試合登板、0勝0敗0セーブ、防御率0.00

堂々たる体躯でエースに君臨

小林聡が生まれ育ったのは茨城県水戸市。幼少期から体の大きかった小林は野球を始めるとその堂々たる体躯を武器に才能をメキメキと開花させていきました。少年野球から始めた小林は高学年になるとエース投手として登板するように。身長はさらに伸び続けたことでチームメイトはおろか、大人でも小林のほうが背は高いということも起こりました。

中学に上がってからも野球を続けていた小林ですが、ここでもエースとして台頭。しかし、肝心の成績は軟式だったせいかさほど高いものでもなく、高校進学には茨城県の名門校である常総学院らからの声はかからず。結果的に茨城県立水戸農業高校へと進学していきました。

農業高校だけあって、農業科や園芸科などの特殊な学科が多数設けられている学校ではありますが、スポーツ校としての顔も持っていて、歴代の卒業生を見ると元大関の武双山、雅山らが卒業生として名を連ね、さらに小林と同様に野球選手になったのはメキシコオリンピックでも陸上100mの代表選手となった飯島秀雄がいました。

野球部に入った小林は中学時代までの軟式から硬式にボールが替わりましたが、これによって小林の投球術に大きな変化がありました。それが小林の代名詞となるカーブでした。

大きなカーブが巨人スカウトに注目を!

決して野球の強豪校というわけではない水戸農業高校に進学した小林聡。強豪チームではないだけにすぐにレギュラーに定着するのは小林の素質たるものですが、小林に個性を与えたのが硬式球に替わってから急激に曲がるようになったカーブの存在でした。

軟式時代からカーブ自体は投げていましたが、硬式になると変化の度合いは大違い。ましてや小林は191センチの長身を誇る投手だけにストレートとこのカーブだけで奪三振を量産できるようになります。大きくタテに割れるカーブに茨城県内の強打者たちは毎回のように苦戦していました。

しかし、これだけすごいカーブを持っていた小林ですが、高校時代の最高成績は95年、3年生夏の県大会での2回戦進出まで。3回戦までには一度も勝ちあがったことがなく、甲子園どころか茨城県大会ですら勝ち進めずにいました。大きな変化を遂げた変化球ではありましたが、コントロールが利かなくなることもままあり、1イニングで4人もの死球を出すという茨城県大会のワースト記録を作ることも。そもそも切れ味が良すぎたせいでキャッチャーが取れないという弱小校ならではの弱点もあり、勝ち進むことができませんでした。

団体競技の野球らしい結末と言えばそれまでですが、この才能が埋もれたままで終わるのはあまりに惜しい。しかし、プロの球団が小林に注目する要素はほとんどないと言ってもいいほどに無名の存在。しかし、この小林に目を付けていたスカウトもいたのです。それは読売ジャイアンツのスカウトでした。

素材型の高校生として6位で指名を受ける

たった1度の登板で現役生活を終える

ドラフト6位と決して高い順位ではなかった小林聡。それでも巨人の選手の一員になれた喜びは大きなものでした。素材型の選手としての入団だったように1年目の96年は身体づくりのために二軍暮らし。同期の高校生選手たちもほとんどがそうだったように小林もまた、いつかは一軍に行きたいという思いから練習に打ち込みます。

小林の願いが届いたか、2年目の97年に小林は一軍へ昇格。シーズン終盤の10月8日のヤクルト戦で念願の初登板を決めました。もうシーズンの決着も済み、消化試合の一戦、しかも小林が対戦するのは下位打線。それだけに気楽に投げられることができました。実際、小林のこの時の成績は打者3人に対して2奪三振を奪うという上々なもの。これで来年以降の飛躍を期待させました。

しかし、これが小林にとって最初で最後の一軍登板になってしまいました。翌98年から再び二軍生活が続くと、入団4年目の99年には戦力外通告。その後横浜ベイスターズの入団テストを受けましたが、不合格に終わり、志半ばで野球選手を引退することになりました。

あまりに寂しい小林の晩年でしたが、巨人は小林をスコアラーとして採用。第二の人生もまた、巨人で過ごすことになりました。


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