佐藤由紀彦について
名前 | 佐藤由紀彦 |
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生年月日 | 1976年5月11日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県富士宮市 |
プロフィール | 東海大一中を経て、清水商に進学。2年時に高校選手権を制し、主将も務めた。ユース代表候補にも選ばれた。平成7年Jリーグの清水エスパルスに入団。10年モンテディオ山形にレンタル移籍、チームの3位躍進に貢献。11年FC東京に1年間の期限付きで所属後、正式に移籍。177センチ、70キロ
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抜群のスキルを見せた高校時代
佐藤由紀彦が生まれ育ったのは静岡県富士宮市。洋食屋さんの息子として生を受けました。サッカーが盛んな静岡県の生まれということもあり、小学1年生になるとすぐにサッカーをはじめ、持ち前の運動神経で頭角を現していきました。中でも佐藤の存在が知られるようになったのはサッカーの名門校、清水商に進学してからのことでした。
柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを持つ佐藤はミッドフィルダーとしての地位を確立し、チームを引っ張る司令塔に。93年には高松宮杯、そして選手権も制覇。
ストライカーの証である背番号「10」を付けて臨んだ翌94年は総体優勝、高松宮配を連覇。さらに国体でも連覇を飾るなど輝かしい実績を残します。単にチームの一員だっただけではなく、高松宮杯では2年連続して佐藤のシュートが決勝点になるなど、ここぞという時に活躍する勝負強さも兼ね備えていました。
高校を卒業した95年、佐藤の進路は大いに注目されましたが、地元清水市にある清水エスパルスへ入団。鳴り物入りでの加入で地元選手として期待されましたが、清水では佐藤の持ち味は発揮できずにいました。
その理由として挙がったのは同じミッドフィルダーに絶対的存在である澤登正朗がいたこと。そして、地元サポーターからの過度な期待がこの頃の佐藤を押し潰していました。結局、清水には99年まで在籍しますが、この間の出場はわずか2試合。ベンチ入りさえ叶わないという苦しい時期を過ごしました。
石崎信弘との出会いで開花。端正なルックスも話題に
清水に入団後、今一つだった佐藤由紀彦。しかし、自らもこの現状を打破しようと奮闘。その中で佐藤が選んだのは期限付き移籍。出場機会を増やすにはうってつけの移籍ですが、これを利用して佐藤は98年、モンテディオ山形にレンタル移籍を果たします。ここで石崎信弘監督に出会った佐藤は覚醒。攻撃の中心としてトップ下に据えられたことで高校時代のプレースタイルが蘇りました。
このクラブではゲームメーカー兼フィニッシャーと言う大役を務めあげて、山形がシーズン中盤まで首位を独走した原動力に。これで佐藤はこの年のJFL新人王、ベストイレブンのダブル受賞を果たしました。
自信を付けた佐藤ですが、99年はこのまま清水に戻るわけでも、山形に残るわけでもなく、J2のFC東京へとレンタル移籍。この選択の理由として挙がったのがサポーターの熱意とクラブのJ1に昇格したいという思いだったと言われています。
佐藤はこのクラブではタテへの突破力とクロスの精度を大熊清監督に買われ、右サイドへのアタッカーとしてプレー。今までとは異なる役目のために当初は苦しみましたが、懸命な練習が実り、J1昇格が勝った大一番で、佐藤のアシストで加賀見健介が決勝点を挙げるという大活躍を見せました。そしてこの活躍が決め手となり、00年も佐藤はFC東京でプレーすることを決め、清水からの完全移籍を果たしました。
FC東京での佐藤は中心選手にふさわしい活躍を収め、01年にはケリーとの絶妙なコンビネーションで話題になるほど。またこの年にはフィリップ・トルシエに見初められて日本代表入りを果たすなど、その活躍、知名度は全国区に。また、佐藤の端正な顔立ちはこの頃から評判になり、いつしか佐藤はイングランド代表のイケメンプレーヤー、デイビッド・ベッカムになぞらえ、「東京のベッカム」と称されるようにもなりました。
横浜Fマリノスの完全優勝に大きく貢献
押しも押されぬ中心選手となった佐藤由紀彦ですが、02年は負傷して戦線を離脱。これによってワールドカップ出場もシーズンも出遅れることになりました。更にこの間に横浜Fマリノスからレンタル移籍でやってきた石川直宏にレギュラーを奪われるという事態に。これがキッカケとなり佐藤は03年、移籍を決意します。
数多くのクラブから声がかかりますが、佐藤が選んだのは横浜。優勝を目指す横浜の「優勝以外は失敗」という目標を意気に感じた佐藤は迷わずレンタル移籍を決断。岡田武史監督の下レギュラーに定着し、右サイドから久保竜彦らへのアシストを量産しました。
佐藤の活躍で得点力が増した横浜はこの年、クラブのJ1ファーストステージ、セカンドステージの完全優勝を果たしました。この活躍もあって、佐藤はこの年のシーズン半ばに横浜へ完全移籍を果たしました。しかし、翌04年は若手の田中隼磨の台頭もあり、シーズン後半は控えに回ることもありました。
29歳とサッカー選手としてピークを過ぎつつある中で、05年に古巣である清水エスパルスへ移籍。しかし、ここでも佐藤はケガに悩まされ、結果的に出番はほとんどないという状態に。故郷に錦を飾るどころか、逆に若手時代の苦い思いを再び味わうことになりました。
06年には恩師である石崎直弘が監督を務めていたJ2の柏レイソルへレンタル移籍。ここでの先発出場は限られていましたが、リーグ戦全てにベンチ入りを果たし、2度目となるJ1昇格に貢献しました。07年には完全移籍を果たし、それまでの右サイドのほか、セントラルミッドフィルダーとしても起用されるなど幅広いプレースタイルを見せました。
08年になると、契約満了のためにベガルダ仙台へ移籍。またもJ2からJ1昇格を目指すチームに力を貸すことになりましたが、クラブはJ1との入れ替え戦で敗退し、惜しくも昇格ならずという結果に。これが原因かは定かではありませんが、仙台は佐藤との契約を打ち切り。わずか1年で仙台を去ることになりました。しかし、佐藤は恨み節を一切吐くことはなく、新天地への移籍を果たしました。
20年もの長きに渡り、現役にこだわったワケ
J1、J2、JFLとサッカーのある所ならばどこでも行くという様子の佐藤由紀彦。09年には33歳となり、サッカー選手としての終わりが見えてきたところでしたが、佐藤はトライアウトを経て、JFLのV・ファーレン長崎へと移籍します。当初は不慣れなセンターバックで起用されことから持ち味を生かし切れませんでしたが、本来の右サイドに戻ると復調。翌10年には主将に任命されるなど、チームからの信頼も厚くなっていました。
11年にはB級コーチライセンスも取得し、この年限りで現役引退も考えられましたが、この年は佐藤の大親友として知られる松田直樹が非業の死を遂げた年。佐藤は盟友の安永聡太郎とともに「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立。さらにコーチとしてではなくあくまで現役にこだわるように。その理由として佐藤が挙げたのは「松田よりも1試合、1年でも多くプレーしたい」ということでした。
佐藤の強い思いと長崎のJクラブへの思いが叶ったのは13年。この年から長崎はJ2クラブに昇格を果たし、佐藤自身も5年ぶりにJリーグでプレー。以降も精神的支柱として支え続け、14年に惜しまれつつも現役引退。20年のサッカー選手生活にピリオドを打ちました。