高須洋介について

名前 高須洋介
生年月日 1976年2月9日
日本
出身 佐賀県伊万里市
プロフィール 小学校5年から野球を始める。父の転勤で金沢市に移り、金沢高に進み3年春、夏の甲子園を経験。青山学院大学では内野をすべてこなす。平成9年アマ野球全日本候補強化合宿3、4日目で5打席連続安打を放つ。10年ドラフト2位で近鉄に入団。右投右打、170センチ、73キロ

青山大学時代から堅実な守備で評判に

高須洋介が野球を始めたのは小学5年生の時。転勤が多い家だったためか、生まれ故郷の佐賀県ではなく、引っ越し先の愛知県のチームで始めました。中学生のころにはチームの中心選手としてプレーするように。プロ入り後は主に二遊間を守ることが多かったのですが、当時の高須のポジションは投手とサード、強い打球を臆せずに受け止めるファイトの持ち主として知られていました。

中学3年生の途中で石川県金沢市に引っ越した関係で、高校は石川の名門校である金沢高校へ進学。この頃から小柄な選手だった高須は決してホームランバッターではありませんでしたが、堅実な守備は高校生離れしており、すぐさまレギュラーに定着します。

そんな高須の高校時代のハイライトはなんといっても93年。春夏ともに甲子園大会に出場したことでしょう。ただ、勝ち進むことはできず、高須の活躍もあまり目立つものでもありませんでした。夏の甲子園大会での甲府工業戦ではプロ入り後にチームメイトになる山村宏樹の前に4打席ノーヒットに終わりました。

高校卒業後、高須は東都大学リーグに所属する青山学院大学に進学。1年生のころからすぐにセカンドのレギュラーに定着し、1学年上の井口資仁との二遊間を形成。ちなみにこの頃の青山学院大学は井口のほかに澤崎俊和、清水将海、倉野信次と後のプロ入り選手が多数在籍していたように黄金期を築いていた時期でした。

それだけに高須もレベルの高いメンバーの中でもまれていき、守備範囲も二遊間だけでなく、サードと内野はすべてそつなくこなせるように。この3ポジションでベストナインを獲得するというリーグ初の快挙を達成するまでになりました。また、打撃面でも2季連続で首位打者を獲得。プロからも注目される存在なりました。

大石大二郎の後継としてプロ入り

大学卒業が近づいた4年生時、高須洋介はプロからも注目される存在に。その中で高須のプロ入りを決定づけたのが97年の日米大学野球。この大会中に高須は5試合中2本塁打とまさかの長打力を発揮。この活躍もあってMVPに選出。これで即戦力選手としての期待を持たれるようになりました。

そんな高須を何よりも欲したのは近鉄バファローズ。この年に長年セカンドを守り続けた大石大二郎が現役を引退したことで後継者を欲していました。その中に現れた高須に注目し、ドラフト会議では2位指名で高須を獲得。背番号も大石が背負った「4」を与えるほど、期待していました。

鳴り物入りで入団した高須ですが1年目の98年はプロの壁に阻まれる形で3試合のみの出場に。大石からレギュラーを奪った水口栄二の存在が強大な壁となりました。しかし、2年目に水口が故障したためセカンドのレギュラーを掴み、116試合に出場します。しかし、この年のオフに右ひじの靭帯再建手術を受けたことで翌00年はリハビリのために全休。1年のブランクは大きかったのか、01年から04年時代からレギュラーを獲得できずに、代走守備固めにとどまります。

得点圏打率1位の「必殺仕事人」

レギュラーを掴めずにいた高須洋介ですが、転機が訪れたのは05年。それまで所属していた近鉄バファローズが経営難を理由に04年に消滅し、新規参入球団として楽天イーグルスが誕生しました。分配ドラフトを経て楽天に加入すると、少ない戦力の中で、一度はレギュラーを掴みかけた高須の実力は抜けたもの。2番セカンドで開幕メンバー入りを果たすと、田尾安志監督に信頼されレギュラーを確保。得点圏打率も3割5分を超えるなど、安定した好成績を残しました。しかし、夏場に故障したために82試合の出場にとどまります。

本格的に高須がレギュラーを勝ち取ったのは翌06年のこと。この年から監督に就任した野村克也のニーズにこたえる形で2番セカンドとして起用されると、打率は3割ジャスト、リーグトップの得点圏打率に加え、セカンドとしてパリーグ1位の守備率、そして出塁率は5位に入るなどの活躍を見せました。また、小柄な打者ながら西武ライオンズのエースだった松坂大輔を得意とするなど、エース級の投手に強いという意外性もありました。

そして、10年目として迎えた07年、高須は選手としてピークの成績を収めます。選手会長に就任したこの年は5月に試合を決める決定打を連発して、3試合連続でヒーローインタビューを受けるほど。シーズンを通じて130試合に出場すると、打率2割8分3厘、得点圏打率は2年連続でリーグ1位を記録、さらに30犠打をマークするなど絶好調。その活躍を見た野村監督は「必殺仕事人」と称し、高須をほめちぎりました。

翌08年は打率こそ落としたものの、リーグ1位の犠打数を記録するなど、自身の仕事を全うします。故障して67試合にしか出場できなかった09年も、重要な場面での活躍が目立ち、チーム初となるAクラス入り、そしてCS出場に貢献しました。

極度の不振からレギュラーを奪われる

楽天の押しも押されぬレギュラーとなった高須洋介。野村克也からマーティ・ブラウンに監督がスイッチしてからも高須の活躍は変わりませんでしたが、12年以降は極度の不振に。折しもこの頃から楽天は藤田一也の獲得や銀次のブレイクが重なり、高須の活躍の場は減少していきました。

そして13年、楽天が日本一になるのを尻目に高須はシーズン後に戦力外通告を受けることに。トライアウトにも参加しても獲得する球団が現れず、14年には独立リーグでプレーしましたが、この年限りで高須は現役を引退。翌15年から横浜DeNAベイスターズのコーチに就任し、後進に道を譲ることにしました。

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