立花美哉について
名前 | 立花美哉 |
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生年月日 | 1974年12月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 滋賀県大津市 |
プロフィール | 両親がペアで全日本ソシアルダンス3位入賞という恵まれた血筋のもとに生まれ、小学校2年から水泳を、6年からシンクロナイズドスイミングに取り組む。平成元年2月13歳・14歳だけを集めた全日本ソロ・デュエット競技会のソロ部門で優勝、デュエットでも藤井来夏と組んで昭和63年に続いて優勝。平成3年世界ジュニア選手権ではソロ、デュエット、チームでいずれも優勝した。5年中国オープンでは奥野史子と組んだデュエットで優勝。6年世界選手権(ローマ)で奥野と組み銀メダル。同年10月の広島アジア大会でも奥野と組み金メダル。7年日本選手権三冠。8年アトランタ五輪では、チームで銅メダルを獲得。9年4月日本選手権で藤井と組み、史上初の5連覇を達成。同年から武田美保とデュエットのペアを組む。10年世界選手権(パース)のソロで銅メダル、デュエットで銀メダル、チームでも銀メダルを獲得。同年日本選手権兼ジャパンオープン・デュエットで2位(日本選手権は三冠)。12月バンコク・アジア大会ソロ、デュエットで金メダルを獲得。11年日本選手権兼ジャパンオープンでデュエット2位(日本選手権は三冠)。12年5月日本選手権三冠で、ソロは史上最多の6連覇を達成。シドニー五輪ではデュエット、チームで銀メダルを獲得。13年5月日本選手権ソロ7連覇、デュエット4連覇。同年7月世界選手権デュエットで、日本シンクロ史上初の金メダル、ソロでも銅メダルを獲得。井村シンクロクラブ所属。170センチ、55キロ
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スポーツ界のサラブレッド、シンクロを始める
立花美哉が生まれたのは滋賀県大津市。両親はペアを組み、全日本ソシアルダンスで3位入賞の実績を持つダンス一族。まさにスポーツ界のサラブレッドともいうべき血筋から生まれた立花は子供のころから抜群の運動神経とバランス感覚に優れていました。小学2年生のころに水泳を始めると、6年生になるとシンクロナイズドスイミングに本格的に取り込むようになりました。この時、指導を受けたのは井村雅代が代表を務める井村シンクロクラブ。名門クラブでのトレーニングが彼女を一流のスイマーへと成長させていきました。
立花が頭角を現したのは88年。中学生だった立花は全日本ソロ・デュエット競技会で藤井来夏とのペアでデュエットを組んで優勝、89年にはデュエットを連覇したのとともにソロ部門で優勝。さらに91年には世界ジュニア選手権でソロ、デュエット、チームといずれの大会でも優勝するなど圧倒的な成績を残しました。
その後、立花は四天王寺高校、同志社大学と進学しますが、シンクロナイズドスイミングの練習環境を求め、大学時代には競技留学のためにカナダへ。シンクロナイズドスイミングに打ち込むために大学を中退し、競技者として生きていく決意を固めました。
アトランタ五輪で銅メダル獲得
立花美哉はその後、93年に中国オープンに出場。この大会で立花は奥野史子と組んでデュエット部門に出場して見事に優勝を飾ります。そしてローマで行われた94年の世界選手権でも奥野と組んで、銀メダルに輝きます。さらに広島で行われたアジア大会でも奥能登のデュエットで金メダルに輝きました。
ここまでくると、立花への期待は自ずとオリンピックに向けられます。その前年に当たる95年に行われた日本選手権ではソロ、デュエット、そしてチームの3部門すべてで優勝するという大記録を打ち立てました。満を持して迎えたアトランタオリンピックでは日本代表のチームに選出され、見事にチームを銅メダルに導きました。
念願のオリンピックメダリストとなった後も立花の技術を衰えることはありませんでした。97年の日本選手権で立場は久々に藤井来夏と組むとこの大会も優勝。92年から続く連覇記録は前人未到の5に到達。いかに立花がシンクロナイズドスイミング界で無敵を誇ったかがわかります。
これまでに多数の選手とデュエットを組んできた立花ですが、この年から新たなパートナーとして武田美保とペアを組むようになります。井村シンクロクラブでもデュエットを組んでいた武田と再会する形になりましたが、立花にとってはこれが最もしっくりくる相手だったようで、98年にはパースで行われた世界選手権でデュエットで銀メダルを獲得します。ちなみにこの大会、立花はソロで銅メダル、さらにチームでも銀メダルを獲得しました。
世界選手権で念願の金メダル獲得
立花美哉は武田美保とのペアを組むようになって今まで以上に好成績をマークするように。98年の同年日本選手権ジャパンオープン・デュエットで2位に入る大活躍。さらに日本選手権ではソロ、デュエット、チームと優勝して三冠を達成しました。12月になるとバンコクで行われたアジア大会でソロ、デュエットで金メダルを獲得。これまで数々のタイトルを獲得してきた立花ですが、意外にも金メダルは今回が初めてでした。
オリンピックが目前に迫った99年、日本選手権でも三冠達成、そしてジャパンオープンでも2位に食い込みます。いよいよオリンピックイヤーとなった00年には日本選手権では3年連続で三冠を達成。中でも立花個人のソロは史上初となる6連覇を達成。圧倒的な実力を武器に、オリンピックでの金メダル獲得が期待されました。
そして迎えたシドニーオリンピック。立花は武田とのデュエット、そして日本代表のチームとしても出場し、どちらでも銀メダルを獲得。あと一歩で金メダルには及びませんでしたが、日本代表として輝かしい実績を収めました。
立花が史上初の快挙を成し遂げたのは翌01年、日本選手権のソロで7連覇、デュエットで4連覇を飾った立花は7月の世界選手権デュエットに出場。長年日本はシンクロの世界大会で金メダルを獲得したことはありませんでしたが、この大会で立花と武田のペアは金メダルを獲得。日本史上初のシンクロナイズドスイミングの金メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。
現役引退後、指導者として転身
シンクロナイズドスイミングのレジェンドともいうべき存在になった立花美哉。01年当時で27歳と選手としてはベテランの域に達し、次のアテネオリンピックが最後の大会となることが予想されました。立花は04年にアテネオリンピックに出場して、デュエットとチームで銅メダルを獲得し、有終の美を飾りました。
現役引退後、立花は指導者としてのキャリアを積むためにアメリカへコーチ留学。08年に帰国すると出身クラブの井村シンクロクラブで指導者として新たな道を歩み始めました。