田坂和昭について

名前 田坂和昭
生年月日 1971年8月3日
日本
出身 広島県広島市
プロフィール 小学3年でサッカーを始める。東海大第一高ではMF、ユース代表。大学ではDF、主将を務める。平成6年ベルマーレ平塚に入団。パスコースの読みに定評があり、スキンヘッドの容貌とともに注目を集める。6年Jリーグ新人王に。のち清水エスパルスを経て、セレッソ大阪に移籍。DFからMFに転向。173センチ、67キロ

大学時代に優勝を経験して、ベルマーレ平塚へ

田坂和昭がサッカーを始めたのは広島県の少年サッカークラブである広島大河フットボールクラブ。後に田坂の代名詞となるスキンヘッドですが、これは自分で剃っていたわけではなく、先天性無毛症という遺伝性疾患のよるもの。田坂自身が被爆3世に当たるため、祖父の影響があったと言われています。そのため、当時の田坂は人前に出るときは必ず帽子を着用。広島カープの赤い帽子を常にかぶって外に出ていたといいます。

高校はサッカーをするために東海大学第一高校(現:東海大学付属翔洋)に越境進学。ここでもミッドフィルダーとして活躍した田坂ですが、高校時代はいわゆる全国大会に出場することはありませんでした。一方で、高校3年生のころにはユース代表に選出されるなど、早くからその実力は知られていました。

田坂が輝いたのは大学に入ってからのこと。東海大学1年生の時には前日本サッカー選手権大会で優勝、そして翌91年には総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントで優勝を飾るなどタイトルを続々と獲得。これで実力を十分に示した田坂には大学卒業間際、多数のJリーグクラブチームからの声がかかります。

田坂はその中でも希望していたのは横浜フリューゲルス入り。しかし、それ以上に田坂を欲したのは平塚にホームタウンを持つベルマーレ。石井義信強化部長、古前田充監督、そして東海大学の先輩である上川徹、ユース時代の親友である名良橋晃らがこぞって田坂を説得。この熱意に折れたた田坂は大学卒業後の94年、ベルマーレ平塚へと入団しました。

ベルマーレ平塚の中心選手として台頭

田坂和昭はルーキーイヤーの94年、大学時代はディフェンダーを主に守っていましたが、この年はボランチ役をゲット。前年のレギュラーだった松山広淳からそのお株を奪うという活躍ぶりを見せます。開幕戦からボランチとして出場した田坂は早くも首脳陣らの期待に応えるようになります。ベルマーレ平塚の本拠地である平塚競技場(現:Shounan BMW スタジアム平塚)のこけら落としとなった第2節にも田坂は出場しましたが、試合中のアクシデントで顔面を骨折。これで1ヵ月間、戦線を離脱します。

ルーキーだけにこれ以上の活躍は酷かと思われましたが、田坂は防護用のフェイスマスクを着用して試合に出るように。生来のスキンヘッドの効果でただでさえ目立つ選手だった田坂ですが、このフェイスマスクの効果でいつしか「ジェイソン」とも呼ばれるように。ファンから信頼されたプレーとその風貌で一躍人気選手になり、平塚はNICOSシリーズで優勝争いを演じる大健闘。シーズン終了後には田坂は新人王を獲得しました。

その後も田坂は平塚にはなくてはならない中心選手に。リーグ屈指の人気選手ということもあり、95年には日本代表に選出されるなどの活躍も見せました。しかし、世界の舞台に立った時、田坂は本来のボランチではなく、ストッパーとして起用されます。不慣れなポジションだったこともあってか田坂は精彩を欠いただけでなく、イングランド遠征時にはロベルト・カルロスに並ぶ間もなく交わされるなど、スピード面の課題が浮き彫りに。代表選では田坂の活躍はあまりありませんでした。

このころの田坂は平塚にはなくてはならない存在になっていましたが、98年になると平塚の親会社であるフジタが経営難に陥ります。コストカットのため、年俸が高額な主力選手たちを軒並み自由契約に。小島信幸、呂比須ワグナーらそうそうたる名前が並ぶ中で田坂も自由契約と言う憂き目に遭いました。このあおりを受けて、田坂も清水エスパルスへと移籍します。

高い指導力で岡崎慎司らを育成

図らずして清水エスパルスへと移籍した田坂和昭。東海大学の先輩である澤登正朗がいることが決め手になりましたが、監督を務めていたスティーブ・ぺリマンはあまり田坂を起用することはありませんでした。チームはセカンドステージを優勝するなど好調な成績を収めましたが、清水時代の田坂の起用はわずか13試合のみ。そのため、00年に田坂は自分の意志でセレッソ大阪へと移籍します。

冷遇された清水時代とは異なり、主力選手として定着した田坂はチームのファーストステージ優勝に大きく貢献。その後、02年まで現役選手としてプレーしてこの年を限りに引退。すると間もなく、セレッソ大阪のユースコーチとして実績を積むようになります。

引退から2年後の04年、田坂は着実にキャリアアップを果たし、セレッソ大阪のジュニアユースコーチに就き、さらにシーズン途中にはトップチームのコーチになり、J2降格の危機に瀕していたチームを救う活躍を見せます。指導者として高い適性を見せだした田坂はこのシーズン終了後にコーチ留学。05年にはS級ライセンスを取得して帰国すると、06年からは古巣の清水エスパルスのサテライトチームの監督に。

続く07年からはトップチームの監督になります。選手としては不遇をかこった清水時代ですが、監督としては岡崎慎司らを育て上げ、指導者として高いスキルを発揮しました。

大分を2年でJ1昇格へ

2011年から田坂和昭は大分トリニータの監督に就任。当時の大分はJ2に降格し、主力選手がほとんど抜けた後と言ういわゆる焼け野原の状態。ここからJ1に押し上げるのはかなり苦しいと予想されましたが、田坂の高い指導力によってチームは再生。選手の特徴に合わせてポジションをコンバートしたり、4バックを3バックに変えるなどの大胆なフォーメーション変更の効果もあり、1年目は12位だった割には大健闘と言う評価を得ました。

翌12年、田坂のサッカーが大分に浸透します。開幕から首位をひた走り、最終的には終盤の失速が響いて6位に終わりましたが、それでもJ1昇格へのプレーオフ権をゲット。ここも難なく通過した田坂率いる大分はJ1へ4年ぶりの返り咲きを果たしました。

これで監督としても一流であることを示した田坂でしたが、13年はチームも低迷、結果的に2年後の15年にチームの不振の責任をとらされる形で解任されてしまいました。その後、田坂は清水のヘッドコーチ、松本山雅FCのコーチを経て、17年からは福島ユナイテッドFCの監督に就任しました。


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