手塚一志について

名前 手塚一志
生年月日 1963年1月5日
日本
出身 徳島県三好郡
プロフィール 徳島・池田高校時代は内野手のレギュラーとして活躍。大阪体育大在学中にはレギュラーになれず、トレーニングのプロを目指して筑波大大学院に進み、スポーツ医学を専攻。昭和62年プロ野球・日本ハムのトレーニングコーチに就任。平成元年東大大学院の研究生として再び研究の道へ戻るが、2年再度プロ野球に身を投じ、ダイエーのコンディショニングコーチとなる。5年スウィング系スポーツ種目の選手やチームをサポートする会社ベータ・エンドルフィンを設立。7年TEZUKA Performance Lab.を開設。著書に「レジスタンストレーニング」「ピッチングの正体」「プロ野球ピッチング解体新書」などがある

池田高校時代から培ったトレーニングイズム

手塚一志が生まれ育ったのは徳島県三好郡。この地で野球を始めた手塚は徐々にその魅力に取りつかれ、高校は同県屈指の名門校である池田高校に進学。内野を守っていた手塚はすぐにレギュラーになりましたが、3年間で甲子園出場はありませんでした。

池田高校の名監督として知られる蔦文也の指導を受けていましたが、池田高校が脚光を浴びたのは手塚が卒業した後のこと。2学年後輩にあたる畠山準、3学年下の水野雄仁らが全国制覇をしたことによるものでした。そのため、手塚は惜しくも甲子園に縁がないまま高校野球を終えました。

しかし、手塚にとって幸運だったのは池田高校が当時の高校野球では珍しくウェイトトレーニングを取り入れ、スポーツドリンクをはじめとした水分補給を積極的にする先進的な練習を取り入れた学校だったことでした。
精神論や根性論に基づいた旧来のトレーニングに疑問を持ち、より効率的で効果のあるトレーニング法を取り入れた学校にいたことで、手塚は自然とトレーニングの分野に興味を持つようになります。

大阪体育大学を卒業した後は当時としては珍しかったトレーニングのプロを目指すため、筑波大学の大学院へ進学。そこでスポーツ医学を専攻します。
こうした努力が認められ、87年、手塚は日本ハムファイターズのトレーニングコーチとして採用。24歳にしてプロのチームのスタッフの一員となりました。

チームの故障者を激減させる活躍

手塚一志が在籍することになった日本ハムファイターズは当時、高田繁が監督を務めていたチーム。
現在の横浜DeNAのGMを務めているように先進的な考えを持っていた高田の下でトレーニングコーチとして採用された手塚はその職を全うし、前年よりも故障者を減らし、献身的なトレーニングのもとで当時若手のホープだった田中幸雄のレギュラー定着に力を貸しました。これが功を奏したか、チームは久々のAクラス入り。トレーニングコーチを採用して一定の成果を挙げました。

そして翌88年、本拠地が東京ドームに移ったことでより守備力を強化したいという意向があったチームでしたが、一方で打線の軸であるトニー・ブリューワが開幕直前に腰痛で帰国してシーズン全休。ディエットも右足の付け根を痛めるというアクシデントがあり、打線は迫力不足に。2年連続のAクラス入りとなる3位に入りましたが、勝率5割を超えることはなく、優勝争いにも絡めなかったことで高田監督はその責任を取る形で退任。そして手塚もこの年限りでチームを去りました。

手塚は89年、ふたたび学生に戻り、東京大学の大学院の研究生として再びスポーツ医学を学びますが、功績を知るプロ野球チームは再び手塚をチームに取り入れます。それが福岡ダイエーホークス、田淵幸一監督を据えた最初のシーズンのスタッフに手塚は名を連ねることになりました。

日本ハム時代とは異なり開幕から低空飛行となったこの年のダイエーは、シーズン開幕から最後まで最下位を独走するという体たらくでしたが、このころの手塚は福岡にある久恒病院の原正文医師に師事して、肩周辺の筋機能の調整エクササイズである「インナリング」と呼ばれるマッサージ法を開発しました。

これを投手陣のコンディショニングメニューに組み込んだことで、肩周辺の傷害の発生率を低減することに成功しました。実際にこの年、成績こそ冴えませんでしたが投手陣の故障は少なく終わっています。

ジャイロボール、マエケン体操を提唱

手塚一志は福岡ダイエーホークスを93年限りで退団。自らのノウハウを生かすよう起業し、ベータ・エンドルフィンを設立します。この時から手塚は自らを「パフォーマンス・コーディネーター」と名乗るようになり、野球選手をはじめとしたアスリートをサポートするようになります。そんな手塚のもとにやってきた最初のクライアントとして知られるのが桑田真澄と工藤公康でした。

両者はこの時点ですでに実力派投手として知られていましたが、すでにプロ入りから10年以上経過していた工藤が2010年まで現役を続けられ、桑田もヒジの手術で1年を棒に振ったとはいえ07年まで現役を続けるという息の長い投手になった理由の一つに、手塚が絡んでいることは間違いありません。

そして手塚はこの年から大村皓一率いる人工技能研究グループに参加して、筋力トレーニングでもより効率的な動きがあることを発見します。新たな筋トレ法を提唱していくことで、野球のみならず他のスポーツ界でも注目される存在になりました。

95年になると、手塚はさまざまな理論を生み出します。ジャイロボールの存在をはじめ、サークルスクラッチと言う肩甲骨を伸ばすストレッチ法も開発。後に松坂大輔がジャイロボールを投げると言われて全米で話題になり、そして前田健太はサークルストレッチを行うようになると、いつしかその動きはマエケン体操と称されるようになり、一般にも広く認知されました。

阪神の優勝に貢献。アスリートの頼れる存在に

手塚一志が再びプロ野球界で注目されるようになったのは99年。自身の著作の中で「シンクロ打法」という打法を提唱。投手の呼吸に合わせたり、外したりしてタイミングを合わせるというものですが、これを取り入れたのが松井秀喜。この打法を取り入れた松井が球界を代表するスラッガーになったのは言うまでもありません。

そんな手塚が再びプロ野球チームに請われたのは02年。今度は星野仙一が新たに監督を務めた阪神タイガースでした。手塚の効果を知っていた田淵幸一が打撃コーチに就任したのが決め手と言われましたが、このシンクロ打法とともにこの頃開発したのはうねり打法。この打法によって目覚めたと言われているのが今岡誠と濱中おさむです。

特に今岡は前年まで低迷していた打撃が02年から復活。03年には首位打者に輝くとともに阪神タイガースを18年ぶりのリーグ優勝に導く大活躍を収めました。これで手塚の名前はプロ野球界を越えて様々なアスリートから絶大な信頼を得るようになります。

その後の手塚は03年に会員制クラブ「上達屋」を解説。11年には東北楽天ゴールデンイーグルスで球界初となるパフォーマンス・コーディネーターに就任するなど、あらゆるアスリートのパフォーマンス向上に一躍買っています。

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