名前阿波野秀幸(アワノヒデユキ)
生年月日1964年7月28日
日本
出身神奈川県横浜市旭区
プロフィール桜丘高校時代は無名チームに在籍していながら、「横浜に阿波野あり」と注目され、プロからの打診もあったが、亜細亜大学に進学。東都大学リーグを代表する左腕投手に成長し、同大学のリーグ優勝に貢献。歴代6位の32勝をあげる。

1986年ドラフト1位で近鉄に指名され、入団。1987年4月初登板初勝利をあげ、この年15勝を記録、新人王を獲得した。1988年から開幕投手。1989年投手部門では31年ぶりの満票でパ・リーグのベストナインに選ばれる。1989年最多勝、最多奪三振。

1990年から規定が見直されたボーク判定に苦しむ。左肘を故障して、不調に陥ると1994年オフに巨人に移籍。3年間で未勝利に終わり、1998年から横浜に移籍。同年、中継ぎとして復活して38年ぶりの日本一に貢献。2000年シーズン終了後引退。

引退後は巨人の二軍投手コーチに就任。2006年横浜コーチ(同年退任)、2012年から再び巨人コーチ就任。

通算成績は305試合、75勝68敗5S、防御率3.71、1,260回0/3、985奪三振。最多勝1回、最多奪三振2回、新人王、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞1回。亜細亜大学卒、左投左打、178cm、75kg

亜細亜大学時代に大きく頭角を現し、ドラフト目玉となる

阿波野秀幸は、神奈川県横浜市に生まれ、小学4年生から野球を始めます。少年野球のコーチをやっていた父の影響で、厳しい指導を受けました。鶴ケ峯中学時代は、100人以上の部員に埋もれてチャンスは少なく、チームも市大会で早々に姿を消します。それでも、強豪・東海大相模高校関係者の目に留まり、勧誘を受けました。しかし甲子園を目指すチームにしり込みして、公立の桜ヶ丘高校へ進学します。当然、甲子園は夢のまた夢であり、神奈川県大会4回戦が最高に終わりました。

すでにプロスカウトが見学に来るほどの実力を持ち合わせていましたが、亜細亜大学へ進学します。ここで、後に決め球となるスクリューボールを習得すると、一気に東都大学リーグをリードする好投手となりました。1年からリーグ戦に登板して、2年時には優勝、4年時はシーズン9勝という歴代最多記録に並びます。通算でも歴代8位の32勝をマークして、1986年ドラフトの目玉となりました。在京球団希望を表明する中、巨人、大洋、近鉄の3球団が1位指名します。希望しない関西を本拠地とする近鉄が交渉権を獲得しましたが、熟考の末に入団を決意しました。

ルーキーながらエースとして15勝をマークして新人王受賞

当時のパ・リーグは、西武ライオンズが直近5年で4度リーグ制覇するなど黄金時代を迎えていました。しかし、近鉄も1984年の4位から、着実に一つずつ順位を上げて、1986年は西武と2.5ゲーム差の2位につけます。そして、投手力が弱かった近鉄は、ルーキー阿波野秀幸を開幕第2戦に先発させるほど即戦力として期待しました。

緊張のプロ初マウンドにも関わらず、9回1失点で初勝利を完投で飾ります。2試合目には、王者西武相手に完封勝利を収めるなど、新人ながら4月の月間MVPを奪う活躍を見せました。その後も、快調に白星を重ねて、オールスターでも勝利投手となります。シーズンを通して活躍し、最多勝に1差の15勝、防御率2.88、201奪三振で最多奪三振タイトル獲得という素晴らしい成績を残しました。同じくルーキーで15勝をあげた西崎幸広とハイレベルの新人王争いにも勝利します。大エースを得た近鉄でしたが、同年は優勝した西武に21.5ゲーム離される最下位に終わりました。

伝説の「10.19」にリリーフ登板するも痛恨被弾で優勝を逃す

同時期に活躍した西崎幸広、渡辺久信らとともに球界のトレンディエースと呼ばれ大人気となります。1988年からは、仰木彬が監督に就任しましたが、ペナントレースは西武が独走しました。しかし、阿波野秀幸の前年同様のエースとしての活躍、ラルフ・ブライアントの加入などで強烈に追い上げます。先に西武が全日程を終了し、近鉄は残り3試合を全勝すれば逆転優勝という局面となりました。最後の2試合はダブルヘッダーとなり、第1試合は阿波野がリリーフ登板して勝利します。2試合目も終盤に勝ち越した8回に、リリーフ登板しましたが、痛恨の同点本塁打を浴びました。延長10回引き分けに終わり、近鉄の優勝は消滅します。後に「10.19」決戦として語り継がれ、近鉄ナインはこの試合の悔しさを翌年にぶつけました。

大車輪の活躍で優勝するも、日本シリーズでは屈辱の4連敗

1989年のパ・リーグは近鉄、オリックス、西武の3チームが激しい首位争いを繰り広げます。阿波野秀幸も19勝をマークして、3年連続でエースの役割を果たしました。終盤には、勝負どころの西武とのダブルヘッダーで、主砲ブライアントが4打数連続本塁打するなど前年の悔しさを晴らします。阿波野は胴上げ投手となり、最多勝に最多奪三振と投手2冠を飾りました。

勢いを持続させて巨人との日本シリーズへ臨むと、第1戦で阿波野が勝利するなど一気に3連勝します。しかし、ここから巨人の逆襲に遭うと、第5戦に先発した阿波野も止められず、無念の4連敗で日本一を逃しました。

規定変更のボーク判定に苦しみ、移籍した巨人でも活躍できず

1990年にボーク規定が見直されて、阿波野秀幸の得意だった絶妙の牽制球が全てボークと判定されます。調子を崩しながらも、4年連続二桁勝利をマークしましたが、左肘の靭帯を損傷し、初の自身シーズン負け越しで終わりました(10勝11敗)。トミー・ジョン手術を回避してフォーム変更でしのごうとしましたが、大きく調子を落とし、1991年からの4年間でわずか9勝に留まります。すると1994年オフには、巨人へトレード移籍となりました。

1995年、中継ぎとして再起を目指し、24試合に登板します。1996年は、終盤しか働けませんでしたが、オリックスとの日本シリーズではリリーフ登板しました。しかし翌年の登板はわずか1試合に終わります。結局巨人在籍3年で未勝利に終わり、1997年オフに横浜ベイスターズへトレード移籍しました。

中継ぎとして復活すると、横浜38年ぶりの日本一に貢献

1998年、横浜ベイスターズ監督に、近鉄時代の投手コーチ権藤博が着任しました。走り込みを増やすなど原点回帰すると、中継ぎとして欠かせない存在となります。同年はクローザー佐々木主浩に繋ぐセットアッパーとして50試合に登板し、38年ぶりの優勝に貢献しました。翌年も、防御率は悪いながらも40試合に登板してリリーフを支えます。しかし、2000年は11試合の出場に留まり、ついに戦力外通告を受けました。

阿波野秀幸は、ドラフトで指名された全3球団に所属して、すべてで日本シリーズ登板も果たすという稀有な経験をします。現役引退後は、巨人、横浜と古巣2球団で投手コーチを務めました。社会人チーム住友金属のコーチを歴任後、2012年からは再び巨人投手コーチとしてチームを支えています。

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