名前吉田剛(ヨシダタカシ)
生年月日1966年11月28日
日本
出身茨城県取手市
プロフィール取手二校時代、2年春は捕手として、3年春、夏は遊撃手として3度甲子園に出場。3年春はベスト8、夏はPL学園を破って全国優勝を達成。

1985年ドラフト2位で近鉄に入団。ルーキーイヤーから守備固めで出場するも、遊撃手レギュラー獲得できず。内外野を守れるユーティリティプレイヤーとして一軍に定着すると、1991年、初の開幕スタメン獲得。同年から3シーズン遊撃手レギュラーを務める。若手の台頭で再び準レギュラーとなるもムードメーカーとしてチームを支える。

2000年5月トレードで阪神に移籍。同年は65試合に出場。2001年は一転して一軍試合出場無しに終わりシーズン終了後、引退。引退後は解説者生活をしながら、実業家に転身。

通算成績は1,012試合、1,966打数478安打、18本塁打、166打点、125盗塁、打率.243。取手二高卒、右投右打、176cm、75kg

甲子園でKKコンビ率いるPL学園を下して全国優勝を実現

吉田剛は、茨城県取手市で生まれ、家から最も近いという理由で取手二校に進学します。木内幸男が野球部監督を務め、吉田以外にも後にエースとなった石田文樹など精鋭が揃いました。木内監督は、悪ガキ集団と呼ばれたナインをまとめると、1982年の県秋季大会を準優勝して、翌年春のセンバツ出場を決めます。2年生吉田は、7番捕手として本戦にも出場しましたが、初戦敗退に終わりました。

2年夏は早々に敗退しましたが、エース石田が成長した秋の県大会、関東大会をともに制して2年連続センバツ出場を決めます。吉田は1番遊撃手として出場し、全国ベスト8に進出しました。投打ともに安定したチームに自信という新しい武器が加わると、3年夏も猛打で県大会を制して春夏連続出場を決めます。主将の吉田は3回戦では本塁打、準決勝ではホームスチールを決めるなど大活躍を見せました。木内監督のサイン無しの「のびのび野球」もチームにフィットして、ついに決勝戦まで駒を進めます。その相手は、前年夏から旋風を巻き起こしていた2年生・桑田真澄、清原和博のKKコンビ率いるPL学園でした。

PLは3季連続で甲子園の決勝まで進んでおり、夏大会2ヶ月前の練習試合でも0-13と完敗したチームです。下馬評では圧倒的不利でしたが、吉田は桑田から本塁打を放つなど、がっぷり四つの試合を展開しました。試合は4-4のまま延長戦に入りましたが、10回表に4点を入れた取手二校が茨城県勢として初の優勝を飾ります。同年秋の国体決勝でも同じくPL学園を下して、高校生活を締めくくりました。

ドラフト2位で近鉄入団後、遊撃手レギュラーの壁に苦しむ

取手二校卒業後、明治大学進学予定でしたが、1984年のドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を受けます。予想外の高評価に迷い、翌年2月のキャンプイン以降にようやくプロ入りを決断しました。相当遅れてのチーム合流となりましたが、ルーキーイヤーから守備固め中心に一軍試合を経験します。3年間で23、1、20試合に出場しましたが、初安打は生まれませんでした。

当時の近鉄遊撃手は村上隆行が務めており、持ち前の長打力でレギュラーを守ります。守備力に難がありその後外野手に転向しましたが、1986年ドラフトで入団した真喜志康永が台頭したため、吉田は一軍定着できませんでした。伝説となった1988年の「10.19」決戦や、1989年の日本シリーズにも出場できずに終わります。すると、吉田は遊撃手以外の内野、さらには外野手もこなすユーティリティプレイヤーとして生きる道を模索しました。

プロ7年目に初の開幕スタメンから遊撃手レギュラー奪取

安達俊也、米崎薫臣ら新たに遊撃手ライバルが現れましたが、誰にも決め手がなく併用が続きます。しかし、プロ入り7年目の1991年、吉田剛は初の開幕スタメンに抜擢されました。すると堅実な守備でポジションを守り、初めてレギュラーとしてシーズンを送ります。打率は.255と低調に終わりましたが、チームトップの14盗塁など存在感を示しました。1992年には109試合、1993年には118試合出場と、3年連続で遊撃手レギュラーを守ります。盗塁も27個、18個と自身の持ち味を発揮しました。

準レギュラーに降格となるも、ムードメーカーとして貢献

1994年、4年目の水口栄二にレギュラーの座を奪われましたが、少ない打席で結果を残し、打率.329を残します。1996年から水口が二塁手へコンバートしたため、同年は吉田剛が遊撃手として、自身3度目の100試合出場を達成しました。しかし、翌1997年、故障が響きわずか11試合出場に終わると、その間に2年目の武藤孝司が一気に頭角を現します。吉田は、得意の守備でユーティリティ性を発揮して、準レギュラーとしてチームに貢献します。試合に出場しないときでも、ベンチではムードメーカーとしてチームを盛り上げました。

阪神へ移籍すると、16年ぶりの桑田真澄との対決でサヨナラ打

2000年シーズン途中に杉山賢人との交換トレードで、西川慎一とともに阪神へ移籍します。実は、阪神は久慈照嘉を放出して以降、再三にわたって吉田剛の獲得を近鉄に打診していました。当時は、田中秀太が多く遊撃手を務めていましたが、1999年のドラフト1位入団の的場寛一が怪我を負ったことから、緊急補強しそれが実現します。34歳での新天地となりましたが、甲子園での巨人戦では、16年ぶりに桑田真澄と対決してサヨナラタイムリーを放つなどファンを沸かせます。シーズン途中の移籍ながら、65試合に出場して的場の穴を埋めました。

突如出場機会を失ったことで、自らユニフォームを脱ぐ

2001年、沖原佳典、藤本敦士、上坂太一郎ら野村克也監督が命名したF1セブンたちが台頭して、一気に出番を失います。結局、同年の一軍出場は一度もありませんでした。ユーティリティプレイヤーの吉田は、翌年も戦力として計算されましたが、秋季キャンプ直前に突然現役引退を表明します。規定打席に到達したことは一度もありませんでしたが、プロ野球というトップの世界で16年もの現役生活を送りました。引退後は解説者として活躍する傍ら、実家が精肉店ということもあって、「豚肉料理 吉田」をオープンさせて実業家としても活躍しています。


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