名前 | 新谷博(シンタニヒロシ) |
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生年月日 | 1964年7月14日 |
国 | 日本 |
出身 | 佐賀県佐賀市 |
プロフィール | 佐賀商業高時代、エースとして活躍。1982年夏甲子園で木造高校と対戦した際、9回2死まで完全試合を展開。しかしその回、2死後デッドボールにより出塁され、大会史上初のパーフェクトは果たせなかった。
卒業後はヤクルトのドラフト2位を辞退し、駒沢大学に進学。東都大学リーグで活躍後、日本生命に入社。1990年社会人野球日本選手権対NTT東北戦で、14奪三振(新記録)で完封勝利、同大会のMVPに選ばれた。 1992年西武にドラフト2位で入団。ルーキーイヤーから先発にリリーフにフル回転。1994年は、初の二桁勝利と最優秀防御率タイトルを奪取。1995年からローテーション投手に定着して2年連続二桁勝利達成。 1997年、開幕から絶不調に陥り、初の二軍降格を経験。その後、不調の時期から脱せずに1999年オフに戦力外通告。2000年日本ハムと契約して3勝をマーク。2001年は、未勝利に終わり同年オフに現役引退。 2002年から投手コーチに就任。その後筑波大学修士課程に進んで指導者のスキルを修得。2006年から尚美学園大学の女子硬式野球部監督に就任。着実に成果をあげると、女子プロ野球日本代表投手コーチを経て、代表監督に就任。2012年の第5回IBAF女子ワールドカッでは日本の3連覇に貢献。 通算成績は238試合、54勝47敗14S、防御率3.64、918回1/3、724奪三振。最優秀防御率1回。佐賀商業卒、駒沢大学卒、右投右打、183cm、77kg |
夏甲子園初の完全試合を逃すも、ノーヒットノーラン達成
新谷博は佐賀県佐賀市に生まれ、小学生の頃から野球を始めます。中学時代に、一時野球から離れましたが、佐賀商業高校で再開しました。2年からチーム事情で投手に転向すると、夏の県予選では準々決勝で敗退します。新チームのエースとして迎えた秋季大会では決勝戦まで進みましたが、大事な試合で敗れてセンバツ出場は夢と消えました。
この悔しさを胸に、さらに練習を重ねて球種も次々と増やします。すると3年最後の夏には、県下屈指の投手として注目されて、ほぼ完璧なピッチングで県大会を制しました。自身初めてとなった甲子園でのマウンドでも、大偉業を成し遂げます。青森県代表の木造戦において、初回から一人のランナーも出すことなく打ち取っていきます。打線も効果的に援護し、気づけば9回2死までパーフェクトピッチングをしていました。後一人で夏の大会史上初の完全試合達成という快挙でしたが、代打で出た打者に痛恨の死球を与えてしまいます。甲子園がため息に包まれる中、次打者をしっかり抑えてノーヒットノーランを達成しました。2回戦でも、東農第二高校相手に9回1失点完投と波に乗ります。続く3回戦でも、延長14回を一人で投げきりましたが、勝ち越し点を奪われて惜しくも敗れました。
プロ指名を拒否して大学進学も、怪我やイップスに苦しむ
高卒時に、ヤクルトスワローズから2位指名されましたが、拒否して駒澤大学へ進学します。東都リーグで順調に実力を披露していましたが、3年冬に後十字靭帯を損傷すると腰、肘と立て続けに故障を負いました。プロスカウトが注目した4年生シーズンはほとんど投げられない状態に陥ります。当然プロの門は開かれず、日本生命に入社しました。
度重なる故障で自身のフォームを失い、時間だけが過ぎていく中、イップスにも陥ります。しかし、社会人4年目にようやく本来の姿を取り戻すと、日本選手権でチームを優勝に導くピッチングでMVPを受賞しました。1991年、都市対抗や日本選手権ではともに初戦敗退しますが、アマ球界No.1投手の称号を得ます。すると秋には、プロ4球団から獲得の打診を受けて、西武ライオンズからドラフト2位指名を受けました。
即戦力として入団し、西武黄金時代に貢献するピッチング
当時27歳の新谷博は、同期の1位入団・竹下潤よりも契約金、年俸を上回る条件で西武へ入団します。そして即戦力の噂どおり、ルーキーイヤーから一軍戦力として活躍しました。開幕第2戦にリリーフで初登板すると、2日後には初セーブをマークします。当時最強だった西武投手陣に食い込んで、8月の初先発でプロ初勝利を飾りました。その後、ローテーション投手として2完投するなどリーグ優勝にも貢献します。日本シリーズでも、2試合に登板して存在感を見せました。
1年目は4勝8敗2セーブと負け越しに終わりましたが、2年目は8勝1敗、防御率3.08と7つの貯金を作ります。工藤公康、渡辺久信、郭泰源、石井丈裕という豪華先発投手陣の5番手として十分な仕事をこなし、リーグ4連覇に貢献しました。
最優秀防御率タイトルに、3年連続二桁勝利と順調に成長
プロ3年目の1994年、チーム事情からリリーフに専念してクローザーも務めます。後半戦ではローテーションの谷間でも先発するなどフル回転しました。同年は自身初の二桁10勝、さらには9セーブと大きな結果を残します。シーズン最終戦で規定投球回数に到達させると、防御率2.91で最優秀防御率のタイトルも手にしました。4年目からは、再び先発投手に固定されると、1996年に開幕投手を務めるなど3年連続二桁勝利を達成してチームに大きく貢献します。まさに入団以来、順風満帆の活躍で、チーム史上最速タイで1億円プレイヤーの仲間入りを果たしました。
突如不振に陥り、日本ハム移籍後も復調することなく引退
1997年も、当然のように先発ローテーション投手としてシーズンスタートします。ところが、2戦連続で早い回に大量失点KOされて、初めて二軍降格となりました。その後も不調が続き、同年はわずか2勝に防御率6.61と散々な成績に終わります。それでも期待をこめて、日本シリーズ第4戦に先発しましたが、4回3失点で負け投手となりました。
1998年も不調が続きましたが、中継ぎから先発に抜擢されると復調を見せます。しかし日本シリーズでは、先発枠には入れず、リリーフとして登板すると2回10失点というまさかのワースト記録を樹立してしまいました。1999年も、わずか2試合の登板に終わり、オフに戦力外通告を受けます。翌年からは、同じパ・リーグの日本ハムへ移籍しました。初年度に3勝をマークして復活の兆しを見せましたが、移籍2年目は17試合で0勝に終わります。すでに37歳というベテランでもあったため、同年で現役引退しました。
女子プロ野球日本代表監督を務めるなど、指導者として活躍
現役引退後は、日本ハムで3年間コーチを務めた後に、筑波大学の修士課程に進んでコーチング技術を習得します。2006年からは、尚美学園大学に創設された女子硬式野球部監督に就任しました。さらに、佐賀県の社会人野球チーム「佐賀塾」の監督も務めるなど、指導者として精力的に活動を開始します。尚美学園でヴィーナスリーグ3連覇を達成すると、その手腕が評価されて、日本代表のコーチに抜擢されました。2012年には、日本代表監督として、日本の3連覇に貢献します。スポーツに関連する会社の代表としての活動も行うなど、セカンドキャリアで輝きを保っています。