名前関川浩一(セキカワコウイチ)
生年月日1969年4月1日
日本
出身東京都調布市
プロフィール調布一小4年で調布リトルに入り、調布シニアでは全日本選手権で優勝。1984年桐蔭学園高1年の夏甲子園に出場。大学では東都大学リーグでベストナイン2回。

1991年ドラフト2位で阪神に入団。同年7月31日対巨人戦(甲子園)で初出場。4年目にはチームの捕手最多出場となりレギュラー奪取。得意の打撃もさえて1996年から2年連続で3割達成。この頃から外野手も兼務。

1997年オフ、2対2のトレードで中日へ移籍。中日では完全に外野手に専念してレギュラー確保。1999年には、3番、1番を務めて、リーグ2位の打率.330、60打点、20盗塁でリーグ優勝に貢献。同年外野手ベストナイン受賞。翌年も外野手レギュラーを務めるも、大きく数字を落とす。

2001年からは2年連続で70試合程度の出場に終わる。2004年、外野手レギュラーは完全に固定化されて、12試合出場に留まる。同年チームはリーグ優勝するも、日本シリーズでは出番無し。

2004年オフ、楽天に無償トレード。移籍初年度に101試合出場するも、年々減らして2007年限りで現役引退。2008年楽天コーチ、2010年は韓国プロ野球・SKワイバーンズコーチ。2011年、再び楽天でコーチを務めた後、古巣阪神で4年間コーチを務める。2016年からは福岡ソフトバンクホークスの総合巡回コーチ、2017年から同作戦・戦略アドバイザーに就任。

通算成績は1,408試合、3,953打数1,129安打、24本塁打、324打点、91盗塁、打率.286。ベストナイン1回。桐蔭学園卒、駒沢大学卒、177センチ、74キロ。右投左打。

高1年で甲子園を経験し、その後は強肩強打の捕手として活躍

関川浩一は、東京都調布市に生まれ、小学4年生から野球を始めます。中学生時代には、調布リトルシニアに所属して、早くも硬式野球を経験しました。中3で全国優勝を経験すると、桐蔭学園高校に進学します。1年生から外野手レギュラーを奪うと、3年生エース志村亮の活躍もあって、いきなり甲子園出場を果たしました。1971年の初出場初優勝以来13年ぶりの出場で、大きな期待がかかりましたが3回戦で姿を消します。その後捕手に転向すると、2年夏は県大会準決勝、3年夏も準々決勝で敗れ、甲子園出場は1年時のみに終わりました。卒業後は駒澤大学へ進学して、東都大学リーグで戦います。強肩強打の捕手として2度のベストナインを受賞し、1年春、2年春の優勝に貢献しました。

阪神期待の打てる捕手として台頭も、チームは長らく低迷

1990年ドラフト会議では、阪神タイガースからドラフト2位指名されます。中日に入団した矢野輝弘と並んで、捕手では最高順位指名でした。当時の阪神捕手は、木戸克彦が長らくレギュラーを務めて、同年も捕手最多の102試合に出場します。関川は、期待のルーキー捕手として10試合の一軍経験を積みましたが、4年目の山田勝彦も66試合出場と、頭角を現していました。

1992年に山田が114試合に出場して、一気に正捕手を奪いましたが、1993年には関川が89試合に出場してレギュラー捕手候補となります。年々着実に出場機会を延ばすと、1994年には得意の打撃で山田に差をつけて、初めて100試合の大台を突破しました。正捕手を奪って余裕を手にすると、1995年には初めて規定打席に到達して、リームトップでリーグ9位の打率.295を残します。打撃ではしっかりチームに貢献できましたが、捕手としては盗塁阻止率が低く、同年から外野手としても起用され始めました。1996年からは、再び山田との捕手併用時期が始まりましたが、打者として2年連続3割を達成します。それでも当時のチームは低迷が続いており、1993年からは5年連続でBクラスに甘んじました。

中日では外野手ベストナインを初受賞してリーグ優勝に貢献

1997年オフ、久慈照嘉と共に大豊泰昭、矢野輝弘との2対2の大型交換トレードで中日ドラゴンズ移籍が決まります。衝撃の捕手同士の交換でしたが、中日の星野仙一監督は、関川浩一を外野手に専念させました。開幕スタメンこそ逃しましたが、キャリアハイの125試合に出場して、3年ぶりに規定打席に到達させます。同年は自身が活躍して、初めてのAクラス入りを経験しました。

さらに1999年は、自身のキャリア最高のシーズンを送ります。3番左翼手で開幕スタメンに名を連ねると安定した打撃で、チームの快進撃に貢献しました。後半はヘッドスライディングを得意とする1番打者に定着し、自身初のリーグ優勝を味わいます。日本シリーズは不調に終わりましたが、135試合にフル出場、リーグ2位の打率.330、60打点、20盗塁の好成績で初のベストナインに選出されました。

深刻な打撃不振でレギュラーを失うと、ライバル争いに敗れる

2000年、他チームにも研究されて大きく数字を落とすと、長い不調の時期に突入します。2001年には、打率.222とレギュラー獲得以降ワーストの数字に終わり、レギュラーの座を失いました。2002年からは、福留孝介が内野手から外野手へ転向したため、さらに外野手レギュラー争いは狭き門となります。それでも2003年には、107試合の出場で規定打席不足ながら打率.316と意地を見せました。しかし、2004年、落合博満が監督に着任すると、守備力の高い英智を外野手に抜擢します。同年、中日はリーグ優勝を飾りましたが、関川の出場はわずか12試合に終わり、日本シリーズの出場もありませんでした。

最期は新規参入球団の楽天で過ごし、17年の現役生活を終了

完全に出番を失った関川浩一は、2004年オフに、無償トレードで新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍します。2005年、記念すべき開幕戦にも1番左翼手として出場し、4月には通算1000本安打を達成しました。同年は2年ぶりに100試合出場を達成して、打率.287と主力ではトップの数字を残します。2年目には、捕手としてスタンバイする試合もありながら、故障の影響で81試合出場に終わりました。同年から、リック・ショート、鉄平、礒部公一の3人が外野で固定されることが多くなり、2007年はその3人が規定打席に到達します。関川の出場はわずか17試合に留まり、17年間のプロ生活に別れを告げました。

引退後は指導者として古巣球団を中心にコーチとして渡り歩く

現役引退後、そのまま楽天に残留して一軍打撃コーチ補佐に就任します。1年で退団して、韓国プロ野球・SKワイバーンズのコーチに就任すると、チームの優勝に貢献しました。2011年、恩師星野仙一の楽天監督就任と同時に、再びコーチとして復帰します。その後、かつてドラフト指名を受けた阪神から声をかけられて、4年間コーチを務めました。2016年からは、選手時代に全く関わりがなかった福岡ソフトバンクホークスに移籍して、総合巡回コーチ、2017年からは作戦・戦略アドバイザーに就任して、常勝軍団を支えています。


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