名前池田親興(イケダチカフサ)
生年月日1959年5月17日
日本
出身宮崎県宮崎市
プロフィール高鍋高時代、捕手から投手に転向。法政大学次代は2番手投手に留まり2勝に終わる。日産自動車時代、都市対抗で頭角を現し、1983年にはロサンゼルス五輪日本代表として予選に出場(本戦は選出漏れ)。

1984年ドラフト2位で阪神に入団。同年新人ながら9勝6敗をあげる。1985年、開幕投手を任される。2年連続9勝に留まるも、規定投球回数をクリアしてリーグ優勝に貢献。日本シリーズでも第1戦で完封して、チームの日本一に貢献。1986年も2年連続で開幕投手を務めるも、怪我で長期離脱。1987年からは、チームの低迷と比例するように不調が続き、4年連続負け越し。

1990年オフ、5対4の大型トレードで福岡ダイエーホークスへ移籍。開幕ローテーションに入るもチーム事情で、リリーフに転向。ストッパーに定着すると、2年連続二桁セーブ達成。1994年は4試合登板に終わりオフに自由契約。1995年ヤクルトに移籍。1996年退団。引退後は西日本テレビの解説者を務める。

通算成績は277試合、53勝69敗30S、防御率4.58、970回2/3、570奪三振。高鍋高校卒、法政大学卒、右投右打、181cm、90kg

阪神4位指名を拒否し、社会人時代は日本代表にまで成長

池田親興は宮崎県宮崎市に生まれ、幼少期は本格的に野球をすることなく過ごします。そして、地元で文武両道を掲げる高鍋高校へ進学しました。同校では、1県1代表戦以前に、宮崎県勢として初めて甲子園出場を実現した名将・平原美夫と出会います。平原監督の下、野球を始めると、才能を開花させてチームのエースとなりました。2年時の1976年は夏の予選でベスト4、3年最期の夏は3回戦敗退と甲子園出場を逃します。1977年ドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受けましたが、拒否して法政大学へ進学しました。

しかし、先輩にも後輩にも好投手の存在のため、2番手投手に甘んじます。東京六大学リーグでは爪痕を残せずに、プロからの指名もありませんでした。卒業後は、日産自動車に入社して社会人野球の世界に入ります。日産でも2番手投手でしたが、1982年の都市対抗では準々決勝で完封してベスト4入りに貢献しました。さらに翌年は東芝の補強選手としても出場するなど頭角を現し、ロサンゼルス五輪日本代表として予選を戦います。本戦代表には選出されませんでしたが、プロスカウトの注目を集めました。

阪神2度目の指名で入団し、新人ながら先発の柱として活躍

1983年ドラフト会議では、高卒時4位指名を受けた阪神から、2位指名を受けて入団します。同1位指名の中西清起とほぼ変わらない条件を提示されて、ともに即戦力として期待されました。そして、1984年のシーズン開幕戦からリリーフで初登板を果たします。しかし、いきなりピンチの場面でタイムリーを打たれて、プロの洗礼を浴びせられました。

それから6日後に初先発を言い渡されると、8回1/3を3失点に抑えてプロ初勝利をマークします。その後も初完投、初完封など順調に勝ち星を伸ばして、先発の柱となりました。同年はストッパーの山本和行が、10勝&24セーブでチーム唯一の二桁勝利を挙げます。同じくルーキー中西はリリーフメインで1勝に終わり、池田は先発投手陣として最多となる9勝8敗、防御率3.90の成績を残しました。

シーズン、シリーズともに開幕投手を任されて日本一に貢献

重い速球を武器とした池田親興は、1985年の開幕投手に抜擢されます。同試合で敗れたものの、開幕第4戦で伝説となったクリーンナップによるバックスクリーン3連発で、阪神は一気に優勝争いの主役に躍り出ます。ランディ・バースが3冠王、中西清起と山本和行のダブルストッパー、新外国人ゲイルの活躍などあって、21年ぶりのリーグ優勝を実現しました。池田は、チーム3人が二桁勝利を達成する中、前年同様の9勝に留まります。それでも先発の柱として、ゲイルとともに規定投球回数をクリアしました。

そして38年ぶりの日本一を目指した日本シリーズでも、第1戦の先発を託されます。西武ライオンズ松沼博久との息詰まる投手戦が展開されて、8回にバースの3ランが飛び出します。池田は、西武打線を6安打に抑えて見事な完封で先勝しました。第5戦の先発では3回2失点と結果を残せませんでしたが、チームは4勝2敗で日本一を勝ち取ります。第1戦終了時に、西武に対して同年最下位だったヤクルトのほうが怖いと発言しましたが、結果的に阪神が優勝したため舌禍騒動には発展しませんでした。

チームは長い暗黒時代に突入し、自身も4年連続負け越し

1986年も2年連続で開幕投手を務めて、好調にスタートを切ります。しかし、怪我を負ったことでほとんどのシーズンを棒に振ってしまい、同年は4勝4敗という不本意な成績に終わりました。復活を期す1987年、先発ローテーションを守りましたが、チームも個人も絶不調に陥ります。5勝13敗、防御率6.10という成績に終わり、チームはまさかの最下位に転落しました。しかし、これは暗黒時代の幕開けに過ぎず、1978年からの4年間で実に3度最下位を喫します。池田親興自身も、4年連続負け越しとチームに貢献できませんでした。

ダイエーではストッパーを務め、現役最期は日本一を経験

1990年オフ、5対4という大型トレードで、福岡ダイエーホークスへの移籍が決まります。開幕から先発として登板していましたが、チーム事情でリリーフへ転向してストッパーに抜擢されました。すると経験を生かして、2年連続二桁セーブを挙げてチームへ貢献します。しかし、1993年に根本陸夫監督が着任すると一気に出番を失い、1994年はキャリアワーストの4試合に終わり自由契約となりました。

1995年、ヤクルトと契約して、5年ぶりにセ・リーグ復帰を果たします。自身が阪神在籍時代は、Bクラス常連チームでしたが、1990年に野村克也監督就任以来、弱小チームを脱却して、リーグ連覇に日本一を達成していました。1995年も開幕から首位を快調に走ると、そのままシーズンを乗りきりリーグ優勝を成し遂げます。しかし、池田は右肘を故障して13試合登板に終わり、2年連続で白星なしに終わりました。オリックスとの日本シリーズでも一度も登板機会はまわってこずに、チームは日本一を達成します。まさに常勝チームへと変貌しましたが、自身はオフに現役引退しました。その後は、ダイエーのスカウトを務めた後、野球解説者として活躍しています。


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