名前浅井良(アサイリョウ)
生年月日1979年7月19日
日本
出身神奈川県横浜市
プロフィール横浜・平戸台小学校2年のとき平戸イーグルスで野球を始め、平戸中でも投手一筋。

桐蔭学園高に進み、1997年エースとして全国高校野球選手権神奈川県大会に出場。2回戦で、大岡高を5回コールドの参考記録ながらノーヒットノーランに抑え、2回裏には本塁打も放つグランドスラムを達成。同年夏の甲子園に出場(2回戦敗退)。卒業後、法政大学進学。のち投手から捕手に転向。

2001年11月自由競争枠で阪神に入団。ルーキーイヤーから一軍試合に出場。2年目には代打中心ながら、チームの優勝に貢献。ポスト矢野輝弘として、次世代の正捕手を期待されながら、相次ぎライバルの台頭に出場機会を減らす。

2008年からは、打力を生かして外野手へ転向。2009年、50試合出場で打率.313、翌年はキャリアハイの85試合出場で打率.297と頭角を現す。しかし2011年から極度の打撃不振に陥り、2013年オフ戦力外通告。トライアウト参加するも獲得球団はなく現役引退。その後、実業家に転身して、バーをオープンさせる。

通算成績は486試合、688打数171安打、12本塁打、66打点、10盗塁、打率.249。桐蔭学園高卒、法政大学卒、176センチ、73キロ、右投右打

甲子園マウンドを経験し、法政大学では捕手に再転向して活躍

浅井良は神奈川県横浜市に生まれ、小学生の頃から野球を始めます。平戸イーグルス所属時代から投手を務めて、桐蔭学園高校に進学しました。投手から捕手へ転向して、激戦区神奈川県予選を戦いましたが、2年連続で5回戦敗退します。そして2年秋に再び投手(兼一塁手)へ戻ると、同級生・川岸強を2番手投手に追いやり自身がエースとなりました。3年最期の夏は、予選初戦からノーヒットノーラン(参考記録)で快勝スタートすると、一気に甲子園出場を決めます。決勝戦のマウンドは川岸に譲りましたが、同じく同級生・平野恵一がチーム唯一の3安打を放つなど横浜商業を退けました。甲子園初戦でも、浅井-川岸のリレーで如水館高校に快勝します。2回戦は川岸が先発完投し、浅井が先制タイムリーを放ちましたが、延長10回の末、敗れました。

卒業後は法政大学へ進学して、志願して捕手に再転向します。後に阪神でチームメイトとなる先輩・安藤優也とバッテリーも組みました。投手陣の協力もあり、一時は脅威の盗塁阻止率8割を記録します。打者としても中軸を任されて長打力を発揮し、在学中3度のリーグ戦優勝に貢献しました。4年秋には、チームは2位でしたが本塁打、打点の2冠を獲得してさらに注目を集めます。2年先輩の安藤も、法政大卒業からトヨタ自動車2年を経て、プロを目指すタイミングでした。

阪神入団初年度から一軍出場し、2年目にはリーグ優勝を経験

2001年ドラフト会議では、安藤優也、浅井良はともに自由獲得枠で阪神タイガースへの入団が決まります。当時の正捕手は、矢野輝弘が務めていましたが、2002年シーズン開幕早々に脱臼して離脱し、その後復帰するも骨折するなど66試合の出場に終わりました。正捕手不在の危機に、ルーキー浅井もチャンスを与えられて、32試合に出場し、27試合でマスクもかぶります。しかし経験不足は当然否めず、強肩を披露するどころか悪送球を繰り返しました。同年の阪神は、山田勝彦39試合、吉本亮31試合、中谷仁17試合、カツノリ11試合など、まさに日替わり捕手となり矢野の穴埋めを固定できません。星野仙一監督就任1年目は、開幕ダッシュに成功しましたが、その後順位を下げて4位で終わりました。

2003年、チームは大胆な血の入れ替えを敢行します。捕手も山田がトレード移籍しましたが、代わって経験豊富な野口寿浩が加入して、さらに激戦区となりました。復帰した矢野はしっかり正捕手の座を守り、野口が第2捕手として固定されます。浅井も捕手としての出番は大幅に削減されましたが、打撃力を買われて常に一軍に帯同し、貴重な代打として働いてチームの優勝に貢献しました。

ポスト矢野輝弘争いに残れず、打力を生かして外野手転向

2004年は、正捕手・矢野輝弘が138試合にフル出場し、第2捕手野口寿浩ですら前年より出場機会を半減させたため、浅井良の一軍出場はゼロに終わります。それでも、衰えが見え始めた野口に代わり、自身がポスト矢野として名乗りを上げました。2005年、2006年とマスクをかぶる試合は限られましたが、貴重な右の代打として一軍にしがみつきます。そしてこの頃から、外野手としての練習も開始し、2005年は1試合ながら外野守備に就きました。

2007年は、7年目の狩野恵輔、新人の清水誉が開幕一軍に抜擢されたため、二軍スタートとなります。矢野が故障で不在のときは、狩野がマスクをかぶったため、自身の一軍出場はわずか5試合に終わり、捕手としての出場は一度もありませんでした。すると同年オフ、かつて阪神に在籍していた関川浩一や北川博敏がそうであったように、本格的に野手転向を決意します。2008年からは、登録も外野手となりましたが、緊急時の第3捕手としての期待もありました。

強固な外野陣の中で存在感を見せるも、継続できずに引退

もちろん、阪神外野には鉄人・金本知憲を始め絶対的レギュラーの存在があり、簡単には出場できません。不動のリードオフマン・赤星憲広が怪我で引退しても、翌年からは安打製造機・マット・マートンの加入などの存在でチャンスは限られました。しかし、浅井良は2009年に50試合出場で打率.313、4本塁打など存在感を見せます。2010年には、キャリアハイの85試合に出場して打率.297と、一時は恐怖の8番打者として恐れられました。

ところが、2011年に極度の打撃不振に陥り、打率.138という不本意な成績に終わります。2012年には、ファームで4年ぶりに捕手出場をこなしましたが、一軍での低迷は続きました。2013年、46試合出場の打率.220に終わり、オフに戦力外通告を受けます。外野手、一塁手、捕手と複数ポジションを守れるいぶし銀のプレーは、トライアウトでも獲得球団がなく、引退を決意しました。

現役引退後は、即セカンドキャリアスタートをさせる

現役引退後は、指導者になることなく実業家へ転身します。引退から1年も経たずして、大阪にBAR「AZAS'(アザス)」を開業しました。それでも完全に野球から離れたわけではなく、「ブリスフィールド東大阪 スポーツアカデミー」にて、ジュニア世代に対するコーチとしても活躍しています。


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