名前 | 高橋明(タカハシアキラ) |
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生年月日 | 1942年5月29日 |
国 | 日本 |
出身 | 山口県防府市 |
プロフィール | 防府高校時代は甲子園出場経験無し。1961年巨人入団。
一軍に定着した3年目の1963年に一気に14勝、巨人の2年ぶりの優勝に大きく貢献した。西鉄との日本シリーズでも2完投勝利を挙げて最優秀投手となった。 1964年は開幕投手を任されて2年連続二桁勝利を達成する12勝。巨人がV9をスタートした年、不調に陥ると中継ぎに配置転向。1968年から9勝、10勝と復活を見せる。 1970年3勝に終わると1971年に西鉄にトレード。この年自己最多タイの14勝を挙げたが、1972年限りで現役引退。2006年、64歳にて永眠。 通算成績は311試合、71勝72敗0S、防御率3.43、1,224回2/3、543奪三振。防府高卒、右投右打、179cm、64kg |
防府高校時代は県ベスト4で散り、甲子園出場の夢叶わず
高橋明は、1942年、山口県防府市に生まれます。地元の防府高校に進学して、1955年のセンバツ出場以来の甲子園を目指しました。当時の山口県は下関商の1強時代こそ終わりを告げていましたが、防府高校にはなかなかチャンスが訪れません。2年時の山口県予選準決勝敗退が自身の最高位であり、甲子園には縁がありませんでした。
巨人入団3年目に突如ブレイクして、初の二桁勝利を達成
1961年、川上哲治が監督に着任した巨人に入団します。長嶋茂雄が、打率と本塁打の2冠を達成してセ・リーグ覇権を奪還し、日本シリーズでも勝利して6年ぶりに日本一となりました。しかし、高卒ルーキーの高橋明は、わずか2試合の登板で5失点と散々な成績で終わります。2年目は、初先発含めて11試合の登板機会が与えられましたが、0勝2敗で防御率5.63と不調の域から脱せませんでした。
3年目は、兼任コーチとなった藤田元司のアドバイスもあって、突如巨人の先発ローテーション投手の仲間入りをします。すると、リーグ最多の5試合の無四球試合を達成するほどの制球力を見せ付けて、初の二桁14勝をマークしました。同じ右の伊藤芳明(19勝)、城之内邦雄(17勝)に続くチーム3位の勝利数を稼ぎます。リリーフでの登板を含めると、42試合に登板してチームのリーグ優勝に貢献しました。
日本シリーズでは2完投勝利、最優秀投手賞で日本一に貢献
1963年の西鉄ライオンズとの日本シリーズでも、高橋明は大活躍します。第1戦は、先発の伊藤芳明が崩れた後にリリーフで登場しましたが、2回1失点と流れを呼び戻せませんでした。2勝2敗のタイで迎えた第5戦は、先発に抜擢されます。するとシーズンどおりの制球力のあるピッチングで9回7安打1点に抑え、ON(王貞治、長嶋茂雄)砲の3本塁打であげた3点を守りきりました。
さらに3勝3敗で両軍王手をかけた一戦でも、先発に指名されて、西鉄エース稲尾和久と投げあいます。巨人が、柳田利夫の先頭打者本塁打で先制するも、その裏すぐに同点を許しました。その後、巨人打線は稲尾以下2投手に、4本塁打を浴びせて大量リードを奪います。高橋は、4失点しましたが第5戦に続く完投勝利で、胴上げ投手となりました。巨人は日本シリーズで初めて西鉄を破って2年ぶりの日本一を飾ります。MVPは3本塁打の長嶋に譲りましたが、堂々の最優秀投手賞を受賞しました。
初の開幕投手を任され、2年連続二桁勝利など先発として活躍
前年、日本一の立役者となった高橋明は、城之内邦雄、伊藤芳明らを差し置いて、1964年の開幕投手に抜擢されます。2年連続でリーグ最多の無四球試合を達成するなど、巨人のローテーション投手を守りました。城之内の17勝に次ぐ、12勝をあげましたがチームは3位に後退します。王貞治が、一本足打法を完成させてシーズン55本塁打を記録しましたが、チームとして不安定さは否めない時期でした。
不調を乗り越えて、5年ぶりの二桁勝利で巨人常勝時代に貢献
川上哲治監督就任後、リーグ連覇が続きませんでしたが、大リーグドジャースの戦法を取り入れたチームが、1965年から本領を発揮します。ONがクリーンナップに定着し、城之内邦雄、中村稔、宮田征典の3人が20勝を達成するなど、2位に13ゲーム差をつけて優勝して、V9のスタートを切りました。高橋明も先発を任されましたが、不調に陥り同年は4勝7敗と二桁勝利が早くも途絶えます。1966年には、新人・堀内恒夫の登場もあって、リリーフに配置転換されました。
2年間のリリーフの間は、合計4勝にとどまり防御率も落とします。しかし1968年に、再び先発するチャンスを得ると、9勝をマークしてチームのV4に貢献しました。1969年には、5年ぶりの二桁10勝をあげて、復活を印象付けます。この頃から、堀内、高橋一三、渡辺秀武の新先発3本柱が頭角を現したため、高橋は再びリリーフ登板がメインとなりました。
移籍した西鉄で孤軍奮闘の14勝を、翌年数字を落として引退
巨人がV6を達成した1970年、高橋明は3勝に終わると、翌年に西鉄ライオンズへ移籍します。かつて、巨人を破って日本シリーズ3連覇を達成していたチームでしたが、1960年代後半から不振に陥っていました。1968年からBクラス5位が2年続くと、黒い霧事件も発覚してチームはガタガタとなります。主力選手がこぞって抜けた時期に、高橋はチームに合流しました。
1971年、高橋はキャリアハイの14勝をマークして投手陣を牽引します。しかし若い東尾修、河原明がともにリーグワーストの16敗を喫するなど、西鉄は38勝84敗8分で2年連続最下位に沈みました。翌年は大きく調子を落として、1勝8敗、防御率6.72という散々な成績に終わります。するとプロとして限界を感じ、同年で現役引退を決意しました。その後は、指導者などでユニフォームを着ることなく過ごし、2006年、64歳の若さで永遠の眠りにつきました。