日高剛について

名前 日高剛
生年月日 1977年8月15日
日本
出身 福岡県北九州市
プロフィール 高校通算26本塁打。平成8年オリックスにドラフト3位で入団。長打力のある左打ちにも定評がある。右投左打、182センチ、81キロ

長打力をウリにプロの世界へ

日高剛が最初に始めたスポーツは野球ではなく、ソフトボールでした。子供のころから体が大きかった日高は捕手としては最適な人材。そのため、ソフトボール時代から捕手としてプレーしていましたが、その経験が後に生きていったのは言うまでもありません。やがて野球に転向した日高はソフトボール仕込みの打撃と長年経験していた捕手としてのプレーを買われて、高校進学時には福岡県内の九州国際大附高校へ進学します。

後に甲子園の常連校となる学校ではありますが、日高が在籍した当時は春のセンバツに1度出場しただけという新参者。そのためか、当時は日高のほかに戦力が揃わなかったこともあるため、選手としては孤軍奮闘となるケースがほとんどでした。4番で捕手と言う重責を担う日高は高校野球の華とも言える甲子園大会出場を目指しましたが、3年間を通じて一度も出場できず。最も違づいた高校2年時の94年夏の県大会。決勝戦まで進みましたが伏兵、九州工に足を掬われる形で敗れています。

高校3年間を通じて甲子園出場がなかった日高でしたが、高校通算26本塁打とパンチ力のある打撃が魅力的でした。これを最も評価していたのがオリックスブルーウェーブのスカウト。将来の正捕手候補として95年のドラフト会議で日高を3位で指名して、入団にこぎづけました。

アクシデントの末に正捕手の座を獲得

日高剛が入団したオリックスブルーウェーブは当時、パリーグの最強チームとして名を馳せていました。当時から球界のスターになったイチローをはじめとした選手層は非常に厚く、中でも捕手は中嶋聡が正捕手を務めている状況。2番手捕手にも巨人から移籍してきた高田誠、そして三輪隆らが控えていたようにとても高校卒の新人が割って入れるような状況ではありませんでした。そのため、プロ入り直後の日高は二軍暮らし。2年間で体力づくりからインサイドワークまで、プロ野球選手としての基礎を叩きこまれました。

しばらく出場機会がないように思われていた日高でしたが、3年目の98年、思わぬチャンスが訪れました。前年オフに中嶋がFA宣言をしてライバルチームの西武ライオンズへ移籍。高田と三輪の2人体制で捕手をやりくりしようとしましたが、その三輪が脱税事件を起こして出場停止処分を食らうという憂き目に遭います。

そのため日高は一軍に昇格しましたが、当初のレギュラー候補だった高田が打撃不振。これにより、日高をレギュラー起用しようという機運が高まり、シーズン開始早々の4月18日に初の一軍マスクを被りました。これをキッカケに日高は一軍に定着するようになり、そのパンチ力のある打撃と強肩で一気にレギュラーの座を掴み、78試合に出場しました。

その後、日高は正捕手として着実に出場機会を増やし、99年には96試合、00年には101試合に出場しています。00年には自身初のオールスターゲームにも出場しています。

リード面で課題も、08年に大爆発

順調にレギュラー捕手としての地位を築いていった日高剛ですが、この頃の日高の評価は微妙なものに。というのもパンチ力のある打撃は魅力と言っても確実性がなく、00年までの3年間の打率ベストは98年の2割2分8厘。OPSも6割を切るというレギュラー失格のクラスの成績でした。01年こそ、自己ベストの打率をマークしましたが、それでも2割4分7厘と2割5分に届かず、初の二桁本塁打である12本を放った02年は打率1割台。試行錯誤の末にバスター打法を取り入れるなど、この頃の日高は打率アップに苦心するようになっていました。

その甲斐あってか、03年は自己ベストの2割6分8厘をマークしましたが、捕手が本来求められるリードの面ではボロボロ。日高ひとりの責任ではありませんが、チーム防御率5.95、シーズン927失点という投手陣をリードしていたという事実は不変。かつて強豪チームだったオリックスが凋落した原因として問われてしまうのは仕方がないこととも言えそうです。

以降の日高は打撃成績が目覚ましい時は守備がダメ、守備で飛躍を遂げたら打撃不振と言うようにどちらかしか向上しないというもどかしいシーズンを送るように。それはチームがオリックスバファローズになってからも変わらず、近鉄バファローズからやってきた的山哲也との正捕手争いを制しても変わりませんでした。これほど中途半端な成績ではFA宣言をしても獲得する球団が現れないのも無理はありません。

日高が奮起したのは08年。チーム内で最大のライバルとなっていた的山が移籍したことでレギュラー争いを心配する必要がなくなり、気持ちに余裕ができました。その結果、前半戦では3割近い打率を残して久々にオールスターゲームに出場。マーク・クルーン相手にホームランを放つ活躍を収めました。後半戦に入ってからも勢いは衰えることなく、最終的には自身最多の134試合に出場して打率2割6分9厘、13本塁打とキャリアハイともいうべき成績を残しました。

阪神移籍も故障に泣く

ついに目覚めた感のある日高剛でしたが、打撃成績が好調だったのは09年の前半まででした。この年の4月に自身初のサヨナラ本塁打を放ちましたが、5月頃から徐々に失速。さらには故障して戦線を離脱するなど、前年とは打って変わって低調な1年に終わりました。さらに事態は悪化する一方で2年後の11年にはついにレギュラーをはく奪。指名打者等でしか起用されなくなっていきました。

捕手としての出場機会を求めた日高は12年オフにFA権を行使して阪神タイガースへ移籍。異なるリーグへの移籍となりましたが、左の代打としての起用をはじめ、榎田大樹の先発時をメインにスタメンマスクを被るなど、捕手としての起用が増加しました。しかし、この年もケガで戦線を離脱して、出場試合はわずか44試合にとどまりました。

そして14年は新戦力として鶴岡一成、若い梅野隆太郎が台頭する一方、日高の出場は激減。たった2試合、打席に立つことなくシーズンを終えました。このシーズン後、日高は現役引退を発表。19年の現役生活にピリオドを打ちました。


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