藤本主税について

名前 藤本主税
生年月日 1977年10月31日
日本
出身 山口県宇部市
プロフィール 徳島県の桑島小2年からサッカーを始め、鳴戸二中では攻撃的MFとして活躍、U-14代表にも選ばれる。徳島市立高の3年間に3回高校選手権に出場。平成8年アビスパ福岡に入団。10年開幕戦からスタメンで出場し、Jリーグ初ゴールを挙げる。11年サンフレッチェ広島に移籍。代表としては、7年U-18代表候補、8年U-19代表、9年U-20代表候補、11年シドニー五輪予選代表に選出。13年キリン杯でフル代表に選出。168センチ、67キロ

伝説の試合を経験して急成長を遂げる

藤本主税の実力はアマチュア時代から知られていました。小学2年生からサッカーを始めると積極的な攻撃を見せるミッドフィルダーとして台頭し、中学時代にはU-14に選出されて早くも代表デビュー。そして徳島市立高校に進学すると、高校サッカー選手権大会に3年連続で出場するなど、その能力の高さはすでに全国区。卒業後の進路が注目されましたが、地元山口県からも近く新興クラブであるアビスパ福岡に96年、入団することになります。

参入が他のクラブよりも遅かったアビスパに入団したためか、藤本は高卒の1年目から出場機会を得て、リーグ戦で10試合に出場。しかし、0得点だったことが響いたか、まだ時期尚早と思われたようで、翌年の出場はわずか1試合のみ。当時の福岡はミッドフィルダーに中払大介、石丸清隆、久永辰徳、久藤清一等の好人材がひしめいていたことも藤本には不運でした。

しかし、翌98年は奮起して30試合に出場してレギュラーに定着。しかし、この年のアビスパは低迷し、翌年から施行されるJ1、J2制度の入れ替えチームの対象になってしまいます。

Jリーグのクラブチームが当初の16チームを大きく超えたことで2部リーグの創設をアマチュアリーグの最高峰であるJFLと改組して行うことに。そのため、入れ替え戦を行うようになりますが、その初戦となったのは藤本が在籍したアビスパとJFLで2位だった川崎フロンターレでした。

試合はアビスパとフロンターレが互角の試合を演じ、ついには延長Vゴールで福岡が勝利。その試合展開があまりに劇的だったこと、1回負ければJ2に降格するという今までにない緊張感からこの試合は今もなお語り継がれ、「神を見た夜」と称されています。

広島移籍で頭角を現すように

アビスパ福岡でレギュラーに定着したかのように見えた藤本主税ですが、99年の契約更改で藤本はクラブの評価に愕然とします。もともとミッドフィルダーが余剰気味だったとはいえ、年俸を減額表示されるなど、藤本に対するクラブ側の評価が低いことがよくわかりました。これで藤本は移籍を決意。藤本を評価していたサンフレッチェ広島に移籍することになりました。

新天地に移籍したことで藤本は水を得た魚のように大活躍。正確なパスワークで知られ、当時在籍していたストライカーの久保竜彦とのコンビネーションはクラブの最大の武器となり、得点を量産するように。この二人の活躍でクラブは天皇杯で準優勝という好成績を収めました。

しかし、藤本と久保の攻撃の強さをさらに強化しようとしたクラブは01年、攻撃的なサッカーで定評のあったヴァレリー・ニポムニシを監督に招聘。結果的にこれがチームの低迷につながることになりました。藤本率いる前線の攻撃力は前年同様の破壊力を誇りましたが、ニポムニシは守備練習に重きを置かなかったことからディフェンス面がズタボロに。そのため失点数が増えて、カウンターアタックを頻発されるように。結果的にJ2降格の危機にまで陥りました。

後半持ち直したとはいえ、翌年にはヴァレリーは解任。新監督のガジ・ガジエフはチームの戦力を自分のスタイルに合わないとして外してしまい、チームは低迷。02年にはJ2降格。これを機に藤本は移籍を余儀なくされてしまいました。

広島移籍後にチームをさまようことに

藤本主税は02年、J2降格したサンフレッチェ広島から離れることになりましたが、その火種はこの年のシーズン中盤からありました。前年の01年に日本代表に選出されたものの、本来の持ち味を生かせなかった藤本は経験を積むために海外リーグでのプレーを希望。そこでオランダリーグのNACブレダの移籍をほぼ決めたのですが、ブレダが経営難で藤本の移籍はうやむやに。結果的に広島での出場機会を失うことになり、移籍を迫られることになりました。

03年、藤本を高く評価するズデンコ・ベルデニック監督に請われる形で名古屋グランパスエイトへ移籍することに。高い期待を背負ったままでのプレーとなりましたが、チームの調子が上がらず、さらに藤本も得点ケースに絡めないなどスランプに。結果的にチームの期待を大きく裏切ることになり、この年限りで退団することになりました。

藤本は翌04年、ヴィッセル神戸へ移籍。経営元が楽天に替わったこともあり、積極的な補強を展開しているクラブだけに藤本の出場機会は多くありました。しかし、ここでも藤本は本来の持ち味を生かせず、またも1年でクラブを離れることになりました。

キャプテンとして大宮を引っ張り、熊本では主将に

広島退団後、どうもツキに恵まれなかった藤本主税ですが、05年に大宮アルディージャに移籍したことで復活。本来の藤本の武器である豊富な運動量と鋭い攻撃力を見せつけ、中盤の主軸を担うようになると、07年からはキャプテンに就任するなど大宮の顔に。7年間にわたり在籍するなど、これまで藤本のキャリアの中で最も長い在籍となりました。

30歳を過ぎ、ベテランと呼ばれる年齢になってきたところで藤本はロアッソ熊本へ移籍。ここでも藤本はチームの主将として引っ張るようになりますが、ひざの悪化により、戦線を離脱するなど体力の衰えを隠し切れないように。そのため藤本は14年限りで現役を引退。長いプロ生活を終えました。


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