山田隆裕について

名前 山田隆裕
生年月日 1972年4月29日
日本
出身 大阪府高槻市
プロフィール 清水商高でFWとして高校選手権、インターハイ、国体など全国大会で6度優勝。日本ユース代表、バルセロナ五輪代表候補にもなり超高校級FWとして注目を浴びる。平成3年日産自動車(現:横浜F・マリノス)に入る。4年アジアカップ日本代表。10年京都パープルサンガ、11年ヴェルディ川崎を経て、12年ベガルタ仙台に移籍。攻撃型MFとして活躍。174センチ、76キロ

タイトル総なめ。超高校級フォワードの誕生

山田隆裕の生まれは大阪府高槻市でしたが、サッカー選手としてのキッカケとなったのは静岡県に引っ越したことでした。日本でも有数のサッカー人気が高い県ですが、山田が引っ越したのはまさにサッカー大国静岡の総本山とも言える清水市。小学3年生からサッカーを始めると持ち前の運動神経を生かしてメキメキと上達していきました。

小学6年生になると山田は清水FCの一員として全日本少年サッカー大会に出場してベスト8入り。中学生になると静岡どころか東海地区の選抜チームにも選出されるようになりました。この中学時代の山田は全日本選抜中学サッカー大会で優勝を飾りました。このころから山田はフォワードとしてプレーしていました。その荒々しいプレースタイルのルーツをたどるとボクシングに由来するのだとか。というのも引っ越す前の山田の自宅付近にはボクシングの名門である大阪帝拳ジムがあり、何度も見学に行っていたほどでした。もし、引っ越さずにいたらボクサーとしても大成していたのかもしれません。

中学時代から頭角を現していた山田は高校進学の際、全国トップレベルの優秀なサッカー選手が集う、清水商業へ進学。強豪校にもかかわらず、山田は1年目からすでにレギュラーとして定着。1年生で出場した88年の全国高校サッカー選手権大会では決勝戦で市立船橋高校相手に決勝点を決めてチームを優勝に導く活躍を収めました。

山田の武器となった巧みなステップと俊足はこの頃からで、高校時代には89年と90年に国体、全日本ユース選手権制覇とタイトルを総なめ。また、高校2年生のころには早くもユース日本代表に選出され、エースナンバーである10番をつけるほど。その実力は高校生離れしていました。

日産自動車でも大活躍。Jリーグの目玉選手候補に

高校卒業後、山田隆裕はその進路が注目の対象となりました。とはいえ、当時の日本にはサッカーのプロリーグがないため、進学するか実業団チームに入るかしかなかったのですが、山田が選んだ道は実業団チームへの入団。というのも、91年にはJリーグの発足が決まっていたため、大学に進むとJリーグ開幕に間に合わないという目算もありました。そのため山田は91年から日本サッカーリーグの1部に所属していた日産のサッカー部に入部します。

このころの山田のプレースタイルはまさに高校時代と同じ。鳴り物入りで入団した注目株でしたが、山田は臆することなくプレーして、レギュラーに定着。この年に行われた天皇杯では読売クラブ戦でダメ押しとなる4点目のゴールを決めるなど、途中出場ながら存在感満点のプレーを見せ、日産の優勝に大きく貢献しました。

これだけの逸材だけに、当然日本代表入りも期待されます。山田は92年になると、ハンス・オフトが指揮を執っていた日本代表に選出され、プレーに臨みました。その翌年にはJリーグが開幕することになり、山田はスター選手として大いに注目される存在となりました。

Jリーグ開幕後の若手スターに

93年、日本のサッカー史上に残る出来事であるJリーグが開幕。山田隆裕が所属していた日産自動車サッカー部は横浜マリノスを名乗り、優勝候補として知られるようになりました。その中でも若きスターとして注目された山田でしたが、開幕節はまさかの故障で欠場。しかし、その後はレギュラーとして申し分ない成績を収めましたが、27試合に出場して3得点と思いのほか得点を稼ぐことはできませんでした。

というのもこの年のマリノスは故障者が続出して、自慢のディフェンスラインが機能しないという非常事態に。結果的に4位に終わり、山田以上にラモン・ディアスが28得点を稼ぎ得点王に選出されたため、さほど成績的に目立つことはありませんでした。

しかし、山田の甘いマスクは女性ファンのハートをがっちりと掴んで人気を博すことに。当時のJリーガーたちはファッション誌等にも登場していましたが、山田もその一人。プレーの内外でも目立つようになり、山田の名は全国区になっていきました。

そんな山田ですが、Jリーグとしての活動には積極的でしたが、日本代表戦ではあまり熱心ではなく、ドーハの悲劇で知られる94年アメリカワールドカップ最終予選の代表入りを辞退。山田が最後に出場した代表戦は94年の9月に行われたオーストラリア戦とほとんど出場することはありませんでした。

国内リーグに集中したいという山田の意向がありましたが、これが結実したのは95年。この年の山田は43試合に出場して7得点とストライカーとして奮起。チームの優勝に大きく貢献しました。

仙台のJ1昇格に貢献

横浜マリノスの中心選手として山田隆裕はプレーし続けてきましたが、次第にその存在感は薄れていきました。年俸の高騰もあり、98年に山田は京都パープルサンガへ移籍。背番号8を渡されるなど期待されていましたが、レギュラーシーズン29試合出場でシュートはわずか1本。これでは安住の地とならず、山田はその後ヴェルディ川崎に1シーズンだけ在籍して00年からはJ2の仙台ベカルタへ移籍します。この年を最後に現役を引退した山田ですが、横浜マリノス時代の監督である清水秀彦が01年から指揮を執ることになったため現役復帰。01年のJ1昇格への原動力となりました。

そしてこれで燃え尽きたのか、山田はその2年、低調なシーズンとなってしまい、03年を限りに現役を引退しました。

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