森島寛晃について

名前 森島寛晃
生年月日 1972年4月30日
日本
出身 広島県広島市
プロフィール 平成3年ヤンマー(現・セレッソ大阪)に入団。6年JFLで日本人トップの16得点をマークし、ナビスコ杯と天皇杯に出場。同年チームはJリーグに昇格。7年Jリーグ第1ステージの最優秀新人賞に選ばれる。12年ベストイレブンに選ばれる。10年W杯フランス大会代表。168センチ、62キロ

JSLで無双し、チームの主力選手に

森島寛晃が生まれ育ったのは広島県広島市。大河FCというクラブチームからそのキャリアは始まりました。広島県でも有数の選手だった森島ですが、高校進学時には静岡県内の強豪校である東海大学第一高校へと越境進学を決意。より高いレベルでのプレーを希望するようになりました。

高校3年間で成長を遂げた森島ではありましたが、静岡県の高校サッカーはし烈を極め、全国大会等の週津城経験はほとんどなし。全国的には無名の存在でしたが、早くからプロ志望だった森島は高校を卒業すると実業団チームへの入団を希望するように。その中でも森島が選んだのはヤンマー。さほど強豪と言うチームではなく91年当時はJSL2部に籍を置くチームでした。

高校生ながら森島の動きは優れていたこともあり、高校を卒業したと同時に森島は早くもプロデビュー。攻撃センスに優れた森島はフォワードとして欠かせない戦力として定着。以来、ヤンマーの主力選手としてそのキャリアを着実に積んでいきました。

リーグ加入年にベストイレブンに選出

森島寛晃が入部した当時、プロサッカーは実業団チームしかなく、Jリーグはまだありませんでした。しかし93年にJリーグが誕生。プロサッカー選手としてプレーするものが続出していきましたが、森島は無縁の存在でした。

というのも、森島の在籍していたヤンマーは当時Jリーグに加盟前。ようやくリーグ加盟に踏み切ったのはJリーグ1年目のシーズンを終えた93年の12月のことでした。この時ヤンマーはセレッソ大阪と名乗るようになり、94年はJリーグ加盟を目指してJFLでのプレーとなりました。

パウロ・エミリオを監督に迎えたこの年、森島はチームの中心選手として奮闘。その甲斐あってチームもJFLを制して見事に95年からのJリーグ参入を決めました。この年の森島の活躍はJFLでは日本人トップとなる16得点をマークし、チームをナビスコ杯と天皇杯に出場に導くほど。天皇杯での準優勝入りに貢献しています。

晴れてJリーグのチームとなった95年。森島はセレッソの押しも押されぬ主力選手のひとりに。その期待に応えるかのように森島は第1ステージの最優秀新人賞に選ばれる大活躍。50試合に出場して11ゴールを記録。この年のセレッソは今一つの成績に終わりましたが、森島自身はベストイレブンに選出される活躍を見せました。

さらにこの年、森島は日本代表選手に初選出。レギュラーとして定着し、抜擢した加茂周監督の期待にも応え、フランスワールドカップに出場した98年、森島は岡田武史監督の下ではスーパーサブとして起用され、フランスワールドカップ本戦でも1試合に出場しています。

「ミスターセレッソ」誕生のキッカケ

セレッソ大阪の主力選手として知られるようになる森島寛晃。森島一人の奮闘で何とかしていたチームだったため、なかなか勝ち切れなかったセレッソでしたが、年を追うごとに強くなっていきました。そうして森島が主将に就任した00年、セレッソは快進撃を収めました。

創立以来弱小チームだったセレッソはこの年快進撃。森島も主将としてこのチームを支え続けていましたが、クラブ初のステージ優勝まであと1つとせまった試合でまさかの敗戦。あと一歩で優勝を逃す結果となりました。しかし、森島自身の活躍が優れていたことからステージMVP、そして2度目のベストイレブン選出とタイトルを得ました。この年の森島の成績は25試合に出場して15得点と以下に森島の実力が抜きんでていたかがわかります。

フィリップ・トルシエに監督が代わって以来、森島は代表からは無縁の存在になっていましたが、この活躍を見て、再び代表に復帰。00年にはチームメイトの西澤明訓とともに参戦し、ハッサン2世国王杯、アジアカップ、そして01年のFIFAコンフェデレーションズカップでの日本代表の好成績に貢献しました。

しかし、森島たちが代表戦に出場していた01年、セレッソはまさかのJ2降格。そのため森島には強豪チームからの誘いが多数やってきますが、それをすべて断ってセレッソ残留。そして1年でのJ1復帰をサポーターに宣言しました。この一連の行動がセレッソサポーターに響き、いつしか森島は「ミスターセレッソ」の愛称で親しまれるようになりました。

背番号「8」はセレッソの伝説の番号に

02年、日韓ワールドカップでも日本代表に選出された森島寛晃。J2クラブからは同僚の西澤明訓とともに選出されると、チュニジア戦で決勝ゴールを決める大活躍。日本代表の初となる決勝トーナメント進出に貢献します。そして森島は宣言通り、02年の1年限りでセレッソ大阪をJ1へ復帰させます。その後もセレッソ一筋でプレーして、いつしかチームの伝説的な存在にまでなっていきました。

06年にセレッソは2度目のJ2降格。この時はさすがに移籍かとも思われましたが、やはり森島が選んだのは残留。しかし、30代半ばに差し掛かってきた森島の体はもはや限界に。この年は首の痛みに悩まされ、翌07年はわずか5試合の出場にとどまるという大スランプに陥りました。

サポーターもチームも森島の復帰を心より祈りましたが、残念ながら首の状態は完治せず、08年を持って森島は現役を引退。長らくつけていた背番号「8」はその後セレッソの代表選手が付ける番号として知られるようになり、森島の後にこの番号を付けた選手は香川真司、清武弘嗣、柿谷曜一朗と名選手揃い。まさに伝説の番号となりました。


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