名前 | 園川一美(ソノカワカズミ) |
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生年月日 | 1963年5月1日 |
国 | 日本 |
出身 | 熊本県八代市 |
プロフィール | 小学校5年から野球を始め、投手一筋。1980年九州学院2年でセンバツに出場。
日体大では1983年春の対東経大戦で奪三振19個の首都大学リーグ記録をマーク。4年の秋には対明学大戦でノーヒットノーランを達成。大学通算33勝13敗。1985年日米大学選手権でMVPを獲得。 1986年ドラフト2位でロッテ入り。同年対南海戦で初勝利。1987年ローテーション入りを果たし、1988年10勝をあげるも、リーグワーストの15敗。その後も、貴重な先発左腕として活躍。時には中継ぎとして敗戦処理も辞さない投球で重宝される。 1993年、自身2度目のリーグワースト敗戦。1996年は開幕投手に抜擢されるも、同シーズン0勝に終わる。1999年シーズン終了後、引退を決意。引退後はロッテ投手コーチ、スコアラー、ブルペンコーチなどを歴任。 通算成績は376試合、76勝115敗2S、防御率4.32、1,543回1/3、1,169奪三振。九州学院高卒、日本体育大学卒、左投左打、175cm、70kg |
日米大学野球の連戦連勝でMVPを奪い、一気に脚光を浴びる
園川一美は、熊本県八代市に生まれ、小学生の頃から野球を始めます。九州学院高校では1年生から主力となり、県秋季大会優勝の原動力となりました。九州大会では、初戦で優勝校に破れましたが、神宮大会でベスト4に入る健闘を見せて、翌春、初のセンバツ出場を手繰り寄せます。2年生エースの園川は、甲子園初舞台でも臆することなく初戦で完投勝利し、続く広陵戦でも9回を5安打1失点に抑えましたが、味方が得点できず0-1で敗戦しました。2年夏は準々決勝で熊本工業に敗れ、秋は2年連続で熊本県を制します。しかし、再び九州大会初戦で敗れると、今度はセンバツ出場権を寸前で逃しました。残るチャンスは3年夏のみとなります。しかし、部員の不祥事で戦うことすら許されず、まさかの出場辞退となりました。
高校卒業後は日本体育大学へ進学します。1、2年生時は東海大学が4連覇して一度も優勝できませんでしたが、1試合19奪三振を記録するなど頭角を現しました。そして、3年春に東海大学の連覇を止める日体大として8度目の優勝を決めると、秋季も連覇を果たします。園川はその原動力として賞を総なめしました。4年時は春夏ともに2位に終わりましたが、ノーヒットノーランを達成して日米大学野球日本代表に選出されます。当時体育教師を目指しており、教育実習と重なりましたが、代表戦を選択しました。当初は猪俣隆がエース格でしたが不調に陥り、園川に多くの出番が回ってきます。すると第2戦から5連投して2勝を挙げて、大会MVPに輝きました。
ロッテ入団2年目に、貴重な左腕としてローテーション定着
日米野球で名を馳せた園川一美は、1985年ドラフト2位ながら、ロッテ、巨人、ヤクルト、南海の4球団の指名が重複します。抽選の結果、ロッテが交渉権を獲得し、1位指名選手よりも好条件で入団が決まりました。即戦力が期待されましたが、ルーキーイヤーはシーズン終了間際にプロ初登板を迎えます。それでも初先発のチャンスにいきなりプロ初勝利を完投で飾るなど、翌年に大きな期待を持たせました。
プロ2年目の1987年、5月から先発ローテーションに定着すると、チーム2位の投球回数を投げぬき8勝9敗の成績を残します。ベテラン左腕・水谷則博の衰えが顕著だったため、園川は貴重な先発左腕として確立しました。同年は、現在もパ・リーグワースト記録の13失点しながら完投というゲームも経験します(自責点は7)。それでも初完封も記録するなど、リーグ10傑にあとわずかの防御率3.55でシーズンを乗り切りました。
初の二桁勝利に、10.19では近鉄逆転優勝の前に立ちふさがる
1987年は、開幕からローテーションを守り、自身初の二桁10勝をマークします。同年のロッテは、荘勝雄(13勝)、小川博(10勝)、村田兆治(10勝)と4人の投手が二桁勝利達成しましたが、園川がリーグワーストの15敗を喫するなど5年ぶりの最下位に転落しました。同年のパ・リーグは、西武と近鉄で稀に見る激しい優勝争いが展開されます。先に西武が全日程を終了し、近鉄はロッテとのダブルヘッダー2戦に勝利すれば逆転優勝という局面になりました。後に10.19と呼ばれた第1戦を近鉄が辛勝して、日本国民が大注目した第2戦、園川がロッテ先発としてマウンドに立ちます。こうした大舞台でも飄々と7回2/3を投げぬいて引き分けに持ち込み、近鉄悲願の優勝は実現しませんでした。
低迷するチームの中で、離脱することなくローテーションを守る
その後も低迷するチームの中で、黙々と先発としてマウンドに立ち続けます。怪我などで長期離脱することなく、ローテーション投手として仕事をこなしていきました。自身入団以降、Bクラスに沈み、1989年には規定投球回数をクリアして防御率6.10、1993年には自身2度目のリーグワースト敗戦と負の記録が積みあがっていきます。外国人との乱闘騒ぎを引き起こしたかと思えば、1994年にイチローにシーズン200安打目を打たれるなど、意図せずクローズアップされることが多くありました。
最初で最後の開幕投手を任されるも、まさかの未勝利で終わる
1995年、バレンタイン監督の下でチームは躍進し、自身初、チームとして10年ぶりのAクラス入りを果たします。園川一美も8勝9敗と負け越しはしましたが、防御率3.52とチームに貢献しました。そして、1996年は、まさかの開幕投手に抜擢されます。伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンという豪華3本柱がいるなかでの起用に、世間はどよめき、批判を受ける中、いつものように飄々とマウンドに上がりました。しかし勝利投手目前で交代となると、同年は負のスパイラルに陥り、黒星だけが積みあがっていきます。結局、23試合に登板して、自身初めてシーズン未勝利で終わりました。
引退試合後に、敗戦処理でプロ最終登板を経験する仕事人
ロッテ先発投手陣は、慢性的な左投手不足にあり、その後も貴重な戦力として重宝されます。しかし、時に敗戦処理としてもマウンドに上がるなど哀愁を漂わせるピッチングを見せました。1999年、シーズン途中に36歳を迎えて同年限りでの引退を決意します。10月に本拠地で引退試合が行われましたが、その後にも敗戦処理で登板するという、最期まで園川のプロ野球人生を物語る幕引きでした。
通算76勝115敗2セーブを残して引退後は、即指導者へ転身します。ロッテで投手コーチ、スコアラー、ブルペンコーチなどを歴任後、2008年には提携球団の中国・江蘇ホープスターズでコーチも務めました。その後も、マリーンズ・ベースボールアカデミーでの少年野球指導や韓国プロ野球のコーチなどを歴任して、現在は地元でベースボールアドバイザーとして活躍しています。