名前小野晋吾(オノシンゴ)
生年月日1975年4月7日
日本
出身静岡県駿東郡長泉町
プロフィール3歳の頃から野球を始める。御殿場西高2年のときセンバツに出場するも初戦敗退。

1994年ドラフト6位でロッテに入団。入団3年間をファームで過ごし、4年目に初登板。6年目に初勝利を挙げると、2000年は開幕からローテーションを守り、サンデー晋吾として9連勝。同年13勝5敗で、最高勝率のタイトル獲得。翌年も10勝で2年連続二桁勝利達成。

2002年から調子を落とすも、2005年先発にリリーフにフル回転して、4年ぶり3度目の二桁勝利。同年はシーズン2位からのリーグ優勝、そして日本一を達成。その後も、ロッテ先発としてベテランとなるまで存在感を示し続ける。2013年、一軍登板ゼロに終わり同年引退を決意。2014年からロッテスカウト、2016年からロッテ二軍投手コーチ就任。

通算成績は293試合、85勝77敗0S、10ホールド、防御率3.68、1,425回0/3、763奪三振。最高勝率1回。御殿場西高卒、右投右打、179センチ、74キロ

2年生エースとして春の甲子園に出場するも、無念の初戦敗退

小野晋吾は、静岡県駿東郡長泉町に生まれ、3歳の頃から野球を始めます。父が息子をプロ野球選手にすべく、自ら作った練習メニューを毎日必死にこなしていました。地元の小中学校を経由して、御殿場西高校へ進学します。同校は甲子園出場は一度もありませんでしたが、入学前年の夏は初めて県大会決勝に進出していました。1年夏は4回戦敗退に終わりましたが、秋からエースに就任すると、県大会を制して東海大会でもベスト4に進出します。するとギリギリの選考で、翌春のセンバツ出場を決めました。

御殿場西高として初の甲子園でも、小野は当然のように先発します。同じく2年生エース岡島秀樹率いる東山高校との対戦は、投手戦で進みました。3-1とリードして9回を迎えましたが同点に追いつかれて、試合は延長戦に突入します。続く10回2死から3ベースを打たれると、中継が乱れる間に打者走者にホームインを許して無念の初戦敗退となりました。悔しさを晴らすため、その後のチャンスで甲子園帰還を目指します。しかし、2年夏、3年夏はともに3回戦敗退して甲子園出場は1度きりに終わりました。

ドラフト6位入団で、打者転向すら検討されるも投手を続行

1993年のドラフト会議から、大学・社会人選手に逆指名権が認められ、同年は重複指名選手がない穏やかなものとなります。オリックス・ブルーウェーブが4人で指名を打ち切ったのに対し、千葉ロッテマリーンズは12球団最多となる7名の指名を敢行しました。この時、6位小野晋吾、7位福浦和也と二人の高校生投手が下位で指名され、後にチームを牽引する立場となります。しかし、当初小野は同年のドラフト会議で唯一入団拒否をしていました。

父の説得によって入団しましたが、プロとのレベル差に圧倒される日々が続きます。すると1年目の6月、当時二軍コーチだった山本功児から、福浦とともに呼び出されました。その目的は、首脳陣を前にしたフリー打撃であり、打者転向の可能性を模索されます。結果的に、福浦は打者に転向し、小野はそのまま投手続行となりました。そして3年間をファームで過ごし、4年目に1試合一軍で初登板を果たします。しかし、大きく花開くことなく丸5年が経過しました。

サンデー晋吾として9連勝するなど、7年目の大ブレイク

5年目にファームで、大きく打ち込まれると、諦めに近い境地で自分の投球を心がけることに専念します。すると、6年目に恩師・山本功児新監督に先発抜擢されて初勝利を挙げるなど、遅咲きのプロ野球人生が幕をあけました。2000年、開幕ローテーション投手に抜擢されると、4月23日の試合から、毎日曜日に先発して怒涛の9連勝をマークします。かつてのチームのエース村田兆治が、サンデー兆治と呼ばれたことに因んで、「サンデー晋吾」として一躍脚光を浴びました。同年は、チームトップの13勝5敗で最高勝率のタイトル、さらにリーグ2位の防御率3.45とエース級の働きを見せます。くしくも打者転向した福浦和也もレギュラーとして初めて規定打席到達を果たしました。

2001年、村田の背番号29を譲り受けると、2年連続二桁勝利と前年同様の活躍を披露します。荘勝雄コーチから伝授されたシュートを武器に、リーグ6位の防御率3.74をマークして、ローテーションを守り抜きました。

4年ぶりに二桁勝利を達成して、31年ぶりの日本一に貢献

その後、相次ぐ故障で先発として数字を落としていくと、2004年には中継ぎとして奮起します。32試合の登板で、4勝3敗、防御率3.45と過去2年の不振からの復活を見せました。すると2005年は、開幕ローテーション投手に復帰して、チームを支えます。前年にロッテ監督に復帰していたバレンタイン監督は、マリンガン打線を作り上げ、豪華先発投手陣に、YFKと呼ばれた薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の勝利の方程式で旋風を巻き起こしました。

小野は、後半からリリーフに回りましたが、4年ぶり3度目の二桁勝利を達成します。実に6人もの二桁勝利投手が誕生し、シーズン2位から31年ぶりのリーグ優勝を実現しました。日本シリーズでも、リリーフとして2試合に登板し、チームのスイープ勝利に貢献します。同年は自身の復活、そして初の日本一達成とキャリア最高のシーズンを送りました。

プロ20年をロッテ一筋で過ごし、通算85勝の成績で現役引退

その後、二桁勝利の達成はできませんでしたが、毎シーズン先発としてマウンドに立ち勝利を重ねていきます。2006年、2009年と規定投球回をクリアするなど、ロッテのローテーションに不可欠な存在として君臨しました。しかし、2010年に怪我で二軍降格を繰り返すと、力の衰えが見え始めます。2013年は、開幕から一軍登板が遠ざかり、ファームでも先発した試合でも9連打されて9失点と残酷な結果が残りました。プロ20年目の小野晋吾は、限界を感じて、同年限りでの現役引退を決意します。引退セレモニーでは、同期入団の福浦和也相手に最期の投球を披露して、ユニフォームを脱ぎました。

ロッテフランチャイズプレイヤーで通算85勝をマークした功労者は、そのまま球団に残りスカウトに転身しました。そして、2016年からは、低迷から抜け出せない古巣の二軍投手コーチに就任して若手の底上げを図っています。

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