名前島田直也(シマダナオヤ)
生年月日1970年3月17日
日本
出身千葉県柏市
プロフィール中学時代は投手として活躍。常総学院高に入学してからは捕手、内野手、外野手とポジションが定まらなかったが、低めの速球を投げられる手腕が認められ投手に。1987年不祥事で辞退した東海大浦安にかわって春の甲子園に初出場、夏は、決勝まで全6試合を一人で投げぬき準優勝の立役者となる。

1988年日ハムにドラフト外で入団。2年目にプロ初登板するも、頭角を現せず1991年オフに横浜へトレード移籍。移籍初年度から先発にリリーフにフル回転し、1994年からは9勝、10勝で2年連続チーム最多勝。1997年、セットアッパーとしてチームの2位浮上を牽引して最優秀中継ぎ投手のタイトル獲得。

1998年も中継ぎエースとして活躍し、38年ぶりの日本一に貢献。1999年オールスター初出場。2年間不調に陥るも、2001年ヤクルトに移籍して、再び日本一に貢献。

2003年近鉄に移籍するも、成績を残せず同年引退。2004年日本ハム打撃投手。2007年~2014年、信濃グランセローズ投手コーチ、2011年から徳島インディゴソックスの投手コーチに就任すると、翌年監督着任。2013年後期優勝、総合優勝達成。2014年は独立リーグ日本一。2015年、横浜DeNA二軍投手コーチ就任。

通算成績は419試合、39勝38敗9S、防御率3.69、665回2/3、417奪三振。最優秀中継ぎ投手1回。常総学院高卒、175センチ、78キロ。右投右打

創部2年目の常総学院のエースとして、甲子園準優勝を達成

島田直也は、千葉県柏市に生まれて、幼い頃から野球を始めます。高校には茨城県で創部2年目と歴史が浅い常総学院へ進学しました。全く同じタイミングで、取手二校で甲子園全国優勝を成し遂げた木内幸男が監督に就任します。投手だけに限らず、あらゆるポジションを転々としながら、チームは夏の県予選ではベスト4に進出するまでとなりました。そして、2年秋には主力投手として茨城県大会で準優勝、関東大会でもベスト8に残り、翌春のセンバツ出場の補欠校となります。さらに、出場が決定していた東海大浦安が出場辞退となったため、常総学院として初出場を決めました。

3年春、初めて甲子園のマウンドにあがりましたが、打線は4安打に抑えられて0-4と完敗で初戦敗退します。しかし、夏も初めて県大会を制して春夏連続出場すると、取手二校時代に続いて、木内監督はチームに快進撃を起こさせました。3年生・島田は絶対的なエース、1年生・仁志敏久もレギュラーとして出場すると、沖縄水産、尽誠学園、中京、東亜学園と注目校や名門校を次々と蹴散らしていきます。そして、取手二校監督時代の3年前同様にPL学園との決勝戦を迎えました。島田は、5試合連続完投の疲れもあって、初回、2回と失点します。PL学園には、野村弘樹、橋本清、岩崎充宏の3枚看板が健在で、自慢の打線も2点に抑えられました。野手も立浪和義、片岡篤史ら豪華メンバーのPLは、5-2で破り史上4校目の春夏連覇を達成します。島田は悔しい準優勝投手となりましたが、6試合連続完投で大きく名を馳せました。

ドラフト外で日本ハム入団も、4年間で一軍未勝利に終わる

1987年ドラフト会議では、PL学園から立浪和義、橋本清、野村弘樹の3名が上位で指名されます。しかし、最期まで島田直也の指名はなく、日本ハムファイターズのドラフト外で入団しました。上位指名入団選手に負けないように、実力を披露したいところでしたが、いきなり肘を故障して手術を受けます。必然的に出遅れて、2年目のシーズン最終戦で、ようやくプロ初登板を経験しました。

3年目の1990年は、中継ぎ中心に20試合の登板機会を与えられます。しかし、投球イニング数をゆうにこえる安打を浴びるなど、防御率5.67と結果を残すことは出来ませんでした。1991年は、イースタンリーグで0勝10敗という散々な数字で、当然一軍登板機会はなくなります。するとオフには石川賢とのトレードで横浜大洋ホエールズへの移籍が決まりました。

横浜移籍が転機となり、中継ぎとしてチームの躍進を牽引

島田直也にとって、横浜移籍がブレイクの契機となります。移籍初年度の1992年から、中継ぎ中心に、ローテーションの谷間には先発を務め、1993年にはプロ初完封も達成しました。1994年からリリーフに専念すると、同年は9勝、1995年は初の二桁10勝と2年連続でチームの勝ち頭となります。1996年は3勝3敗でしたが、防御率は4年連続3点台以下と好調をキープしました。

1997年は、チームのセットアッパーに定着して、後半からの大躍進に大きく貢献します。4月は最下位だった横浜でしたが、マシンガン打線と絶対的なクローザー佐々木主浩により投打のバランスがかみ合い、ヤクルトと優勝争いを演じました。最終的には地力に勝るヤクルトに振り切られましたが、翌年に大きく期待を起こさせます。島田はチーム2位の60試合に登板して防御率2.55を記録し、最優秀中継ぎ投手のタイトルを奪いました。

中継ぎエースとして活躍し、横浜38年ぶりの日本一を達成

前年、自信をつけたチームは、権藤博新監督の下、6月から首位に浮上します。島田直也は2年連続で中継ぎエースとして君臨し、チームトップの54試合に登板しました。成績も6勝2敗1セーブ、防御率もキャリアハイの2.36と好成績で、38年ぶりの優勝に大きく貢献します。日本シリーズでは、1試合しか出番がありませんでしたが、自身初の日本一を経験しました。

移籍したヤクルトで復活し、自身2度目の日本一を経験

1999年、前年の活躍もあって初めてオールスターゲームに出場します。しかし、2年連続で出場試合数、成績も落とし、2000年オフにはまさかの自由契約となりました。すると、同じセ・リーグのヤクルトスワローズへの移籍が決まります。かつて低迷していたヤクルトでしたが、野村克也が監督に就任すると4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成して黄金時代に突入していました。

しかし、1998年以降は主力メンバーの高齢化も進み、3年連続4位とBクラスに沈みます。若松勉監督にとって勝負の3年目というシーズン、島田直也は横浜時代同様に活躍を見せて見事復活を果たしました。五十嵐亮太、山本樹らと強力中継ぎ陣の一人として、53試合に登板し防御率2.91と好成績を残します。チームはペナントレース、日本シリーズを勝ち抜き、自身2度目の日本一となりました。

引退後は指導者に転身して、独立リーグ日本一監督となる

2002年、再び不調に陥ると4試合登板にとどまり、オフには2度目の自由契約となります。自身4球団目となる大阪近鉄バファローズへ移籍して復活を目指しましたが、わずか3試合の登板に終わりました。

島田直也は、現役引退を決意すると、2004年からプロ入団したときの球団である日本ハムの打撃投手に転身します。2007年からは指導者として本格的に第2の野球人生をスタートさせました。4シーズンを信濃グランセローズの投手コーチとして過ごし、2011年からは徳島インディゴソックスの投手コーチに就任します。2012年からは同チームの監督に着任すると、2年目に年間総合優勝、3年目にはグランドチャンピオンシップにも勝利して独立リーグ日本一となりました。着実に、指導者としてのスキルを付けると、2015年から横浜DeNAベイスターズの二軍投手コーチとして、NPBのユニフォームを着ています。

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