名前田中充(タナカミツル)
生年月日1979年9月6日
日本
出身京都府京都市
プロフィール小学校4年から軟式野球を始め、太秦中学では軟式野球部の投手で4番。西京商高に進学して1年秋まで一塁手、2年春から外野に転向。3年間夏予選ではオール3回戦敗退。右投左打のスラッガーのため、「古都のゴジラ」と称される。

1998年ドラフト4位で横浜に入団。入団4年間で、2度の膝手術を受けるなどファームで過ごす。5年目キャンプで好調を維持して初の開幕一軍入り。2002年5月プロ初安打。しかし、一軍で三振の山を築くなど結果を残せず再びファーム生活が続く。2006年、3年ぶりに9試合一軍出場するも無安打。2007年、背番号0、登録名を「ミツル」として心機一転を図るも、オフに戦力外通告。

2008年からパナソニックで社会人野球選手に転身。2009年現役引退。関西外国語大学野球部コーチ就任。

通算成績は27試合、28打数2安打、0本塁打、0打点、0盗塁、打率.071。西京商卒、187センチ、82キロ、右投左打

京都随一のスラッガーとして「古都のゴジラ」と称される

田中充は、京都府京都市に生まれ、小学4年生から野球を始めます。中学時代も軟式野球部のエースで4番とチームの中心的存在でした。そして、かつては何度も甲子園出場経験のある西京商業高校(現在の西京高校)へ進学します。その打棒は突出しており、1年秋からチームの4番を任されるほどでした。しかし、一人では府大会を勝ち抜けるほど甘くなく、1年、2年と夏は3回戦で姿を消します。外野手一本に絞ると、さらに打撃に磨きがかかり、2年秋から脅威の数字を残していきました。

右投左打ちのスラッガーのため、いつしか「古都のゴジラ」と称されるようになり、外野守備でも俊足・強肩と走行守三拍子揃った選手となります。3年最期の夏も、前年まで同様に3回戦で敗退しましたが、2年秋から3年夏までの1年間で、打率.541本塁打、18本塁打、102打点、40盗塁という好成績を残しました。

横浜のアキレス腱・大砲不在を埋める候補として期待される

1997年、横浜ベイスターズは、前年までの下位から抜け出して優勝争いを展開します。最終的には2位でしたが、マシンガン打線と呼ばれた攻撃的な打線を持っていました。そのオフのドラフト会議では、将来性を重視して1位から4位まですべて高校生を指名します。この時、4位指名だったのが田中充であり、横浜に不在だった日本人大砲候補の期待をこめました。そして、翌年から背番号を51から7に代える鈴木尚典の後継者という意味合いもあって、51番の背番号を与えられます。こうして、球団の期待を背負い、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせました。

怪我による不調で力を発揮できず、4年間ファームで過ごす

1998年、横浜ベイスターズは、前年の勢いそのままにセ・リーグのペナントレースをひた走ります。打ち出したら止まらないマシンガン打線、絶対的なクローザー佐々木主浩へ繋ぐ磐石な投手リレーで、38年ぶりのリーグ優勝、日本一を達成しました。

レギュラー固定で戦ったシーズンでもあり、高卒ルーキー田中充には出番はなくファームで過ごします。しかもイースタンでも2年連続で打率1割台に落ち込み、0本塁打と期待された長打力を発揮できませんでした。さらに入団4年間で、2度の右膝手術を余儀なくされるなど、怪我にも泣かされます。3年目にイースタンで初本塁打、4年目には86試合出場で打率.282、1本塁打、26打点と少し数字をあげましたが、首脳陣の期待からは下回り、4年間一軍出場ゼロに終わりました。

5年目に開幕一軍入りしてプロ初安打も、三振の山を築く

プロ入り5年目の2002年、膝の心配もなくなると、春季キャンプで注目されます。オープン戦でも好調を維持して、自身初の開幕一軍切符を掴みました。そして、シーズン開幕第3戦で、代打としてプロ初出場します。5月の巨人戦でエース上原浩治から嬉しいプロ初安打を記録すると、その3日後には7番右翼手で先発出場機会も与えられました。同年、17試合に出場しましたが、2安打の打率.100、そして20打席で9三振を喫します。その後二軍降格となると、イースタンでも打率.248、1本塁打、18打点と結果を残せませんでした。

長距離打者の片鱗を見せるも、凌駕する日本人大砲が誕生

2003年も1試合1打席ながら一軍出場しますが、三振に終わります。それでも、イースタンでは、95試合に出場して、打率.286、6本塁打、35打点と、突如長打力を発揮し始めました。しかし、同年は一軍に球団として待望の日本人長距離砲が誕生します。大卒ルーキーの村田修一がいきなり25本塁打を放てば、9年目の多村仁志も18本塁打と覚醒しました。田村は翌年に一気に40本、100打点と爆発して、強力打線が出来上がります。田中充も、2005年に打率.281 8本塁打、34打点と好調を維持しましたが、一軍に呼ばれることはありませんでした。

2006年、戦力外通告におびえながらも、プロ9年目を迎えます。例年通り開幕はファームスタートとなりましたが、かつてないほどの不調に陥りました。ここ数年、増えてきた本塁打の魅力に取りつかれて、自然とスイングが大きくなります。しかし、自身で長距離打者の発想を捨てて、バットを短く持ちました。すると、7月からは3割を超える高打率を残し、通年でもキャリアハイの打率.295を記録します。バッティングのコツを掴んだかに思われましたが、同年3年ぶりに出場した一軍試合では、9試合でノーヒットに終わりました。

改名して再起を図るも、未完の大器のまま解雇通告を受け引退

2007年、背番号を0に、選手登録名も「ミツル」に変更して、心機一転を図ります。しかし、一軍出場は一度もなく、オフにはついに戦力外通告を受けました。「古都のゴジラ」と呼ばれた未完の大器は、一軍でわずか2安打、0本塁打と花開くことなくチームを退団します。その後、パナソニックで社会人野球選手として、2シーズンプレーして現役を引退しました。松下電器退社後は、関西外国語大学硬式野球部のコーチを務めました。

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