名前多村仁(タムラヒトシ)
生年月日1977年3月28日
日本
出身神奈川県厚木市
プロフィール中学時代、厚木リトルシニアに所属。横浜高校進学後、1994年甲子園に春夏連続出場。

1995年ドラフト4位で横浜入団。1997年4月対中日戦でプロ初本塁打。右肩故障を克服するため、同年オフに手術。しかしあまりの重傷にボルトを埋め込まざるを得ず、1998年の日本一には全く貢献できずに終わる。

2000年に一軍復帰するも、相次ぐ怪我でスタメン定着できず。2004年、怪我を押して出場し続けると打率3割、40本塁打、100打点をマーク。翌年も交通事故で117試合出場ながら、31本塁打、79打点。2006年第1回WBCでは5番として日本の優勝に大きく貢献。2006年4月、肋骨4本骨折する大怪我で戦線離脱。

同年オフに寺原隼人とのトレードでソフトバンク移籍。移籍初年度に132試合に出場するも、怪我が続いて不本意な成績が続く。2010年、キャリアは印140試合に出場して、交流戦首位打者を取るなど、チーム3冠の打撃成績でパ・リーグ1位通過に貢献。初のベストナインにも輝く。

翌年からは出場機会を減らすと、2012年オフにトレードで横浜に復帰。初年度こそ存在感を示すも2015年はわずか4試合の出場に終わり戦力外通告。2016年、中日と育成契約するも怪我で支配下登録が実現せず、同年現役引退。

通算成績は1,342試合、4,140打数1,162安打、195本塁打、643打点、43盗塁、打率.281。ベストナイン1回。横浜高卒、右投右打、179センチ、72キロ

粒ぞろいの同級生が揃うも、甲子園ではわずか1勝にとどまる

多村仁は、神奈川県厚木市に生まれ、中学時代から硬式野球を始めます。地元の厚木リトルシニアから、名将・渡辺元智監督が率いる横浜高校に進学しました。1年夏はベンチ入りできませんでしたが、多村の代は有力選手が多く、秋季大会では早くも主力となります。関東大会決勝でも、1番・斉藤宜之、4番・紀田彰一、先発・矢野英司と1年生がチームをリードして準優勝を飾りました。

2年春のセンバツでは多村に出番がありませんでしたが、夏には5番打者としてクリーンナップを任されます。しかし決勝ではノーヒットに終わって出場権を逃しました。それでも、秋に実力を示して、3年春のセンバツで自身初めて甲子園出場を果たします。初戦は大勝しましたが、続く2回戦で大敗と不完全燃焼に終わりました。3年最期の夏は、斉藤、紀田、多村でクリーンナップを組み、激戦区神奈川の夏を制します。しかし、甲子園初戦で、4番紀田が全打席敬遠されるなど、2-4で敗れました。渡辺監督にして、素材だけなら松阪大輔の代を上回ると評価したチームでしたが、3年間で聖地1勝に終わります。多村も主力でしたが、常に怪我に泣かされた高校生活でした。

横浜入団後、右肩故障が長引き38年ぶり優勝は全くの蚊帳の外

1994年のドラフト会議では、紀田彰一が1位指名で2球団競合して横浜ベイスターズに入団します。多村仁も横浜4位で指名され、さらに斉藤宜之も巨人4位指名されました。下位指名ながらプロ野球選手となり、一軍での活躍を目指しましたが、2年間はファームで過ごします。3年目を迎えるにあたって教育リーグで本塁打を連発すると、1997年の開幕一軍切符を手にしました。

代打としてプロ初出場し、その後初安打、初本塁打と順調に階段を登りましたが、5月の外野守備で肩を壊して、同年の出場は18試合に終わります。その後ファーム試合に出場しましたが、肩の状態は改善せずオフに手術を受けました。しかし、いざ手術をすると思いのほか重傷で右肩にはボルトが埋め込まれます。奇しくも、1998年はチームが38年ぶりの日本一を達成しましたが、自身の一軍出場はゼロに終わりました。

怪我を押して出場し続けると、3割、40本、100打点をマーク

2000年に3年ぶりの一軍に復帰し、時に長距離砲としての才能を見せましたが、相次ぐ怪我でスタメン定着とはなりません。2003年には、91試合に出場して18本塁打とブレイクしましたが、腰痛、肩痛、発熱などで規定打席には全く届きませんでした。2004年も、開幕前から怪我が絶えませんでしたが、少々のことでは休むことなく試合に出続けます。すると123試合に出場して初めて規定打席に到達させました。田代富雄打撃コーチの指導もあって、同年は打率.305、40本塁打、100打点という長距離打者として文句のつけようのない成績を残します。2005年も交通事故で前半戦を棒に振りながらも、31本塁打、79打点を記録して和製主砲としての貫禄を見せました。

第1回WBC優勝の立役者となるも、シーズンでは早々に離脱

2006年シーズン前には、初めてメジャーリーガーも参加する第1回WBCが行われます。多村仁は、長距離砲として栄えある日本代表に選出されて、全試合に5番打者として出場しました。普段経験のない送りバントの失敗がありましたが、外野守備で2度のファインプレーに、チームトップの3本塁打、9打点をマークします。日本の初代王者獲得に主砲として大きく貢献しました。一気に全国区となった多村は、同年シーズンでも順調に滑り出します。しかし、4月早々に肋骨を4本骨折する大怪我で早々に戦線離脱しました。

交流戦首位打者、チーム3冠などソフトバンクの1位通過に貢献

2006年オフ、あまりに怪我離脱が多い多村仁は、寺原隼人との交換トレードで福岡ソフトバンクホークスへ移籍となります。開幕戦で2本塁打を放つ最高のスタートを切り、キャリアハイの132試合に出場しました。しかし、4度の肉離れを起こすなど怪我が多い特徴は変わらずで、打率.271、13本塁打、68打点に終わります。その後も2年間、不本意な成績が続き、FA権を取得していましたが宣言せずに残留しました。

しかし、2010年は自身初めて故障離脱のないシーズンを送ります。交流戦でも当時史上最高の打率.415で首位打者を奪うとそのまま好調を維持しました。同年は、チーム3冠となる打率.324、27本塁打、89打点でシーズン1位通過を導きます。クライマックスシリーズに敗れて日本シリーズ進出は出来ませんでしたが、全144試合中140試合に出場して初のベストナインに選ばれました。

現役最期は育成契約しながらも、最期まで怪我に泣いて引退

2011年、100試合出場にとどまりましたが、通算1000本安打を達成します。日本シリーズでも骨折を負いながら出場して、自身が活躍して初めての日本一を経験しました。2012年、開幕直前に腰痛で戦線離脱すると、同年は79試合出場で成績も大きく下降させます。するとオフには、3対3の大型トレードでかつての古巣・横浜へ復帰となりました。

初年度こそ96試合に出場して、サヨナラ本塁打含む12本塁打と長打力を見せます。しかし、筒香嘉智、梶谷隆幸ら若手が台頭すると出番を失いました。2015年は一軍出場わずか4試合に終わり、オフに戦力外通告を受けます。しかし、39歳にして中日と育成契約してでも現役続行を目指しました。初めて三桁の背番号を背負いましたが、最期まで怪我との戦いとなります。足の故障で支配下登録を勝ち取れず、2016年10月ついに現役引退を表明しました。


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