名前 | 伊東昭光(イトウアキミツ) |
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生年月日 | 1963年4月2日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都江戸川区 |
プロフィール | 中学時代リトルリーグ全日本のエースとして米国に遠征。帝京高2年の1980年センバツで決勝戦まで進出、中西清起と投手戦を演じるも準優勝。卒業後は本田技研に進んで3年目の1984年にはロス五輪で日本チームのエースとして大活躍し、チームは金メダルを獲得。1985年には日本選手権で4試合を1人で投げ抜いて優勝、自らも最高殊勲選手となった。
1985年ドラフト1位でヤクルト入り。1年目からローテーション入りし、1987年には14勝を挙げる。1988年18勝を挙げ、リリーフ投手として初めて最多勝を獲得。 その後、不調と故障で3シーズン低迷するも、1992年、7勝を挙げてカムバック賞受賞。1993年も13勝でリーグ連覇、日本一を経験。その後も、ベテランとして、先発にリリーフにフル回転して、1995年、1997年の日本一に貢献。しかし、1996年に負った怪我の影響が大きく、1998年シーズン終了後、現役引退。 1999年ヤクルトのコーチに就任。2001年は一軍投手コーチとして日本一に貢献。2006年からは、古田敦也選手兼任監督を、ヘッドコーチ兼投手コーチとしてサポート。2007年、最下位の責任を取って辞任。2011年二軍投手コーチとして復帰、2014年から2シーズン二軍監督歴任。 通算成績は325試合、87勝76敗21S、防御率4.01、1,289回1/3、632奪三振。最多勝1回、カムバック賞。帝京高卒、右投右打、176cm、76kg |
甲子園準優勝、ロサンゼルス五輪金メダルなど輝かしい実績
伊東昭光は、東京都江戸川区に生まれ、輝かしいアマ球界実績を残していきます。中学時代は、江戸川ポニーで硬式野球を始めて、全国大会で好投を見せました。卒業後は、当時
甲子園出場経験は春1度、そして聖地未勝利の帝京高校に進学します。すると1年秋からエースの座に上り詰めて、秋季都大会で準優勝を収めます。2年春のセンバツ初戦では、挨拶代わりに完封発進すると、準決勝では自らのサヨナラ本塁打で一気に決勝戦へ駒を進めました。そして決勝でも、中西清起率いる高知商業と息詰まる投手戦を繰り広げます。延長10回でサヨナラ負けしましたが、全5試合をオール完投で、防御率0.52という好成績を収めました。
突如、帝京と自身の名を全国に知らしめましたが、その後の主役の座を荒木大輔に奪われます。2年夏の準決勝で早稲田実業に完封負けを喫すると、同年秋、3年夏も初戦敗退して早々に姿を消しました。しかし、本田技研に入社後も社会人野球を続けると、1984年には日本代表としてロサンゼルス五輪で金メダル獲得に貢献します。1985年には、全日本選手権の全4試合で完投勝利するなど、MVPに輝いてチームを優勝に導きました。
ヤクルト入団2年目にエースとなり初の二桁14勝をマーク
1985年のドラフト会議では、PL学園のKKコンビ(桑田真澄・清原和博)に大注目が集まります。清原に6球団が1位で競合する中、即戦力の伊東昭光にも3球団が1位指名しました。ヤクルトスワローズが交渉権を獲得して入団すると、開幕第3戦に早くもリリーフでプロ初登板を果たしました。その後、高卒入団4年目の荒木大輔とともに先発ローテーション投手となり、4度目の先発でプロ初勝利をマークします。同年は、先発、リリーフともに17試合に登板し、ルーキーイヤーは34試合、4勝11敗、防御率4.10の成績を残しました。
2年目からは早くもプロの水に慣れて、ヤクルト先発の柱となります。チームトップの31試合に先発し、14勝11敗と初の二桁勝利をマークしました。同僚の尾花高夫が11勝、荒木も10勝と3人の二桁投手が誕生し、途中入団のボブ・ホーナーがそのパワーで旋風を巻き起こします。しかし、チームは勝率5割を割り、優勝した巨人から19.5ゲーム離される4位に終わりました。
クローザーながら18勝をマークしてまさかの最多勝獲得
当時、各球団には試合の最後を締めるリリーフエースが確立し始めます。しかしヤクルトは、長年固定されたクローザーが不在で、前年は先発要員の高野光が務めていました。1988年、関根潤三監督は、故障した高野に代わって伊東昭光をクローザーに抜擢します。すると東京ドームのこけら落としとなった開幕戦で初セーブを挙げます。現代野球の9回1イニングだけの登板ではなく、伊東は終盤に複数イニングを任されました。広沢克己、池山隆寛という若き長距離砲がともに30本塁打を放つなど得点力がアップし、終盤の逆転劇も増えます。自然と伊東に勝利投手が転がり込むようになり、同年は55試合登板、18勝9敗17セーブの成績でまさかの最多勝に輝きました。規定投球回数未達での最多勝はプロ野球初の出来事となります。投打に明るい話題が多かったヤクルトでしたが、さらに順位を5位に下げました。
不調から復活してリーグ優勝に貢献し、カムバック賞も受賞
1989年から再び先発に復帰しましたが、前年の酷使もあって大不振に陥ります。1990年は右肩故障で3試合登板に終わり、1991年は一軍登板なしに終わりました。丸2年間未勝利に終わる間に、監督に野村克也が就任してチームにID野球を注入します。1991年には、実に11年ぶりのAクラス3位まで順位を上げていました。
1992年、チームは序盤から優勝争いに加わり、伊東昭光も先発としてマウンドに復帰します。勝利数は7勝止まりでしたが、岡林洋一、西村龍次に次ぐ3本目の先発投手として貢献しました。終盤、阪神に逆転されましたが、荒木大輔が奇跡の復活を果たしてムードは最高潮となります。優勝が決まる試合でも先発荒木が5回を1失点に抑え、最期をセーブで締めたのが伊東でした。自身初の日本シリーズでは、リリーフとして4試合に登板して2勝をあげます。最終的には西武ライオンズに惜敗しましたが、オフにはカムバック賞を受賞しました。
ベテランとしてチームを支え続け、3度の日本一を経験
勝ち方を覚えたチームは、翌1993年も好調を維持して見事な連覇を飾ります。伊東昭光は、大事な終盤9月に月間MVPを獲得するなど、チームトップの13勝をマークしました。前年と同じ顔合わせとなった日本シリーズでは、先発、リリーフで2試合に登板しましたがともに失点します。しかし川崎憲次郎の2勝、クローザー高津臣吾が3セーブなどでついに西武を下して日本一に上り詰めました。
その後ヤクルトは、1995年、1997年も日本一を達成してまさに黄金時代に入ります。伊東は1995年も自身4度目の二桁10勝で貢献しました。しかし、1996年に骨折を負うと、その影響からか一気に不調に陥ります。1998年は、ほぼリリーフとして31試合に登板しましたが、握力の低下が著しく同年限りで現役引退を決意しました。
投手コーチとしても日本一に貢献し、その後二軍監督も歴任
引退後も、ヤクルトに残り指導者生活をスタートさせます。二軍投手コーチを経て、2001年一軍投手コーチに就任すると、若松勉監督をサポートして4年ぶりの日本一にも大きく貢献しました。古田敦也選手兼任監督が誕生すると、投手コーチ兼任のヘッドコーチという難しい役割に就任します。しかし、古田自身も兼務だったこともあってチームは停滞し、最下位となりました。
この時、古田監督とともにヘッドコーチを退くと、球団編成部員に転身します。しかし指導力には定評があり、2011年二軍投手コーチとして復活しました。その後、2014年から二軍監督を2シーズン務めるなど、選手時代からずっとヤクルト一筋で過ごしました。