名前 | 佐藤秀明(サトウヒデアキ) |
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生年月日 | 1960年5月23日 |
国 | 日本 |
出身 | 秋田県秋田市 |
プロフィール | 秋田市立高校時代は甲子園出場経験無し。東洋大学4年春に、仁村徹とともに優勝の立役者となり、全日本選手権準優勝を飾る。日立製作所時代も2年連続で都市対抗に出場し、1984年全日本代表に選出。
1984年ドラフト2位で阪神に入団。1985年新人ながら中継ぎ投手として活躍し21年ぶりの優勝にも貢献。1986年も中継ぎとして46試合に登板するも、その後2年間出場機会が激減。 1988年オフに近鉄にトレード移籍。1989年、ロングリリーフも任されるなど重宝されてチームの優勝に貢献。キャリアハイの47試合に登板して、7勝3敗4セーブをマーク。日本シリーズでも勝利投手となるが、逆転で敗退。その後も2シーズン中継ぎとしてチームに貢献しましたが、1992年の故障がもとで退団。 1993年甲子園球場のそばに、焼き肉屋“こうしえん24”を開店。2007年、脳内出血にて46歳で死去。 通算成績は193試合、10勝11敗6S、防御率4.15、255回2/3、113奪三振。秋田市立高卒、東洋大学卒、左投左打、176cm、73kg |
大学・社会人時代に頭角を現して、日本代表にも選出される
佐藤秀明は秋田県秋田市に生まれ、地元の秋田市立高校(現在の秋田中央高校)に進学します。少し前には、甲子園初出場でベスト8、その後も2年連続甲子園出場するなど強豪校でしたが、佐藤が在学中は、県大会で早々に敗れて縁がありませんでした。特に注目を浴びることなく卒業すると、東洋大学へ進学します。3年生まではリーグ優勝経験がありませんでしたが、着実に力を付けていきました。そして4年春には、1学年下の仁村徹とともに投手陣を支えて、初優勝します。その後の全日本大学野球選手権でも準優勝と、遅まきながら頭角を現しました。
社会人野球・日立製作所に入社すると、2年連続で都市対抗野球大会に出場します。1984年には、アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出されるなど、ドラフト会議を前にして大きく注目を浴びました。
ルーキーイヤーから阪神中継ぎに定着して、日本一に貢献
1984年のドラフト会議では、阪神タイガースから2位指名を受けて、24歳でプロ入りします。そして、かつての甲子園アイドル・太田幸司が、阪神時代につけていた背番号24を譲り受けました。1985年、ペナントレースがスタートして約1ヶ月半が過ぎた頃、リリーフとしてプロ初登板します。無難に抑えると、福間納とともに左のリリーフとして一軍に定着しました。
主に対左打者用のワンポイントリリーフとして起用されると、抜群のコントロールでチームに貢献していきます。同年は37試合35回1/3を投げて、わずか6四球の防御率3.31という好成績を残しました。山本和行、中西清起のダブルストッパーへ繋ぐという日の当たりづらい役割を黙々とこなして、チームのリーグ優勝に貢献します。日本シリーズでも2試合に登板して、プロ初年度にいきなり日本一を味わいました。
2年連続中継ぎとして活躍するも、突如出場機会を失う
プロ2年目の1986年も、貴重な左腕リリーフとして活躍します。チーム3位の46試合に登板して、プロ初勝利含む2勝1敗1セーブの好成績を残しました。ところが、防御率を1点以上悪化させ、首脳陣が求める左打者抑えにも失敗が目立つようになります。すると、翌年から出場機会を大きく減らしました。その間、先発要員だった遠山奬志がリリーフ転向して、佐藤秀明の役割は奪われます。1988年は、ファームで防御率2位の好成績を残しましたが、一軍登板は4試合、イニング数にしてわずか2/3回のみに終わりました。
移籍した近鉄ではロングリリーフもこなして優勝に貢献
1988年オフに、福家雅明とともに、住友一哉、南秀憲との交換トレードで近鉄バファローズに移籍します。特に故障などを負ったわけではなかった佐藤秀明にとって、このトレードは転機となりました。
前年、10.19決戦で無念の引き分けに終わり優勝を逃した近鉄は、覇権奪還を誓って1989年シーズンをスタートさせます。しかし、開幕ダッシュに失敗して、ライバル西武との3連戦を迎えました。初戦を落とした近鉄でしたが、佐藤が2試合を1勝1セーブと活躍して息を吹き返します。阪神時代は、ワンポイントリリーフでしたが、近鉄・仰木彬監督は佐藤をロングリリーフでも起用して力を引き出させました。吉井理人が不調の際は、代役クローザーも担いながら、チーム最多タイの47試合に登板します。最終的には7勝3敗4セーブの成績でチームのリーグ優勝の立役者となりました。
日本シリーズで勝利投手を掴むも、チームは大逆転で敗退
佐藤秀明は、続く日本シリーズでも持ち味を発揮します。エース・阿波野秀幸の完投で先勝し、2試合目、6回終わって2-2の同点の場面でリリーフ登板しました。7回表に1安打を許すも無失点に抑えると、その裏近鉄打線が4点を奪って勝ち越します。8回表も併殺打を打たせるなど無失点に抑え、9回表にソロ本塁打を打たれて降板しました。その後クローザー吉井理人が試合を締めたため、佐藤に勝利投手が転がり込みました。
本拠地で連勝スタートし、第3戦も完封リレーで3連勝と、近鉄にとって初の日本一が目前に迫ります。しかし、そこから巨人の大逆襲が始まり、4戦、5戦と連敗を喫しました。第6戦、1点ビハインドの場面で再びリリーフに指名されましたが、岡崎郁に痛恨の本塁打を浴びます。貴重な追加点を取った巨人は、勢いそのままに第7戦も勝利して軌跡の逆転日本一を飾りました。
肘痛によりプロ生活8年で引退すると、46歳の若さで永眠
1990年からも貴重な左腕リリーフとして、一軍に定着します。2年連続で30試合弱に登板しましたが、防御率は4点台と安定感を欠きました。1991年に、最初で最期となった先発マウンドにも立ちます。しかし、この試合は復活した阿波野秀幸に勝利投手を付けさせるための苦肉の策であり、3回2失点で降板しました。
1992年は一転して、一軍二軍ともに登板無しに終わります。プロ入り以来、左肘痛に悩まされており、ついに悲鳴を上げてしまいました。結局、痛みが引かず同年限りでの現役引退を決意します。プロ生活はわずか8年に終わり、引退後も指導者などで球界に残ることもありませんでした。かつて戦った甲子園球場近くに焼肉店をオープンさせて、実業家に転身します。しかし、2007年3月、脳内出血によって46歳という若さでこの世を去るという訃報が飛び込んできました。