西澤明訓について
名前 | 西澤明訓 |
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生年月日 | 1976年6月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 静岡県清水市 |
プロフィール | 清水東高2、3年で国体連覇。平成6年アジアユース選手権準優勝。7年セレッソ大阪に入団。同年7月〜8年5月オランダのフォレンダムに留学。11年4月対柏レイソル戦でJリーグ最短の7分でハットトリックを達成。12年ベストイレブンに選ばれる。同年シーズン終了後、スペイン1部リーグのエスパニョールへ移籍。13年1月対ラスパルマス戦でスペインリーグデビューを果たす。通算6試合に出場、ノーゴールのまま同年6月退団し、セレッソ大阪に戻る。この間、9年対韓国戦で初の日本代表入り。12年ハッサン2世杯の対フランス戦で1ゴールを決めるなど活躍。13年イングランドプレミアリーグのボルトンにレンタル移籍。同年9月対ウォルソン戦で初ゴール。ポストプレーもできるFW。180センチ、71キロ |
アマチュア時代から大活躍した将来のスター候補
西澤明訓が生まれ育ったのは静岡県清水市。日本屈指のサッカーの街でした。小学校時代に清水フットボールクラブと言うサッカークラブに所属したことで西澤はサッカーに触れ、メキメキと上達。高校進学時には静岡県内のサッカー強豪校である清水東高校へと進学します。全国から選手がやってくる名門校ではありますが西澤はその中でも頭角を現して、1年生にして即レギュラーに。フォワードのポジションをガッチリとキープします。点取り屋の西澤の活躍もあり、清水東は全国高等学校総合体育大会のベスト4に入りました。
西澤個人でも2年生、3年生の2度に渡り、国民体育大会の静岡県選抜チームに選出。中心選手として大会2連覇に大きく貢献するなど、早くからその名を知られる存在でした。当然プロ入りの話も多数やってきて、その中で西澤が選んだのはセレッソ大阪。高校卒業後に期待されての入団となりました。
将来のスター選手ということもあり、注目を去れた西澤でしたが、当時のセレッソはレギュラーが固まっていたこともあり、この年から西澤を起用するのではなく、より実践的にプレーしてほしいという思いから入団早々からオランダのエールステ・ディヴィジに所属するFCフォレンダムへレンタル移籍。さらにこの年、U-19の日本代表に選出されるなど、その船出はとても順調なものでした。
森島寛晃とのコンビでゴールを量産
西澤明訓は96年にセレッソ大阪へ復帰すると、リーグ戦に14試合出場。特筆すべきは得点数の多さで3得点を記録しました。さらにリーグ戦でも11試合で5得点という決定力のあるストライカーとして台頭していきました。日本代表にも選出された西澤は翌97年の韓国との親善試合でデビューするなど、徐々に頭角を現していきました。
その後も西澤はセレッソの顔となり、森島寛晃とのコンビで注目を集めるように。西澤が優れていたのは抜群のボールコントロール技術で、数多くのアクロバティックなゴールを決めて、ファンを魅了していきました。
得点数とともに年々出場数も増やしていき、98年には32試合に出場して7得点。そして99年には30試合に出て11得点と2桁得点をマーク。この年のハイライトは4月に行われた柏レイソル戦。この試合で西澤はキックオフ直後から大爆発。開始直後にゴールを決めると、その数分後には2本目のゴール。さらには試合開始から7分後には3本目のシュートを決めてハットトリック達成。Jリーグ史上最短記録となる「開始7分でのハットトリック」という大記録を達成します。
西澤と森島のコンビでセレッソは徐々に台頭していき、00年にはファーストステージでついに優勝争いをするように。西澤もこの年、リーグ戦で29試合に出場して15得点と荒稼ぎ。さらにリーグ杯でも3試合で2得点を記録するという大活躍。この好成績によって西澤は自身初となるJリーグベストイレブンに選出されます。
クラブの危機を救い、優勝争いに加わるほどに
Jリーグベストイレブンに輝いた西澤明訓は更なる高みを目指して、01年からスペインへ。リーガ・エスパニョーラの1部リーグに所属していたRCDエスパニョールへレンタル移籍を果たしました。しかし、ここでは出場機会に恵まれず、6試合の出場にとどまりました。その後、7月にはイングランドのプレミアリーグに所属するボルトン・ワンダラーズFCへ移籍したものの、リーグ戦の出場はなしと苦戦していました。同時に西澤の離脱によって弱体化したセレッソ大阪はまさかのJ2降格。この状況を聞いた西澤は海外リーグへの挑戦を止め、セレッソへと復帰します。
02年、セレッソに復帰した西澤は日韓ワールドカップの期間以外はほぼフルシーズン出場。34試合で8得点と言う好成績を残しました。この西澤の活躍もあって、セレッソはすぐにJ1へと昇格。ミスターセレッソと称された森島寛晃とのコンビの復活もセレッソファンはまさに大喜びでした。
J1に復帰したセレッソでやることはもはや一つ。優勝を狙うことでした。西澤はその後もチームの看板ストライカーとして活躍。中でも圧巻だったのは05年でした。
この年、西澤は28試合に出場して10得点を記録。最後の最後まで優勝争いを演じましたが、最終節でのFC東京戦でまさかの引き分けに終わり、セレッソはあと少しのところで優勝を逃してしまいました。これで気持ちが切れてしまったのか、セレッソは翌年2度目となるJ2降格。これをキッカケに西澤も移籍をすることになりました。
清水移籍も振るわず、セレッソで有終の美を
07年、西澤明訓は地元である清水エスパルスへと移籍。初の優勝に向けて強豪クラブへ移籍しましたが、この年は22試合に出場して0得点とやや不本意な成績に。ナビスコカップにこそ出場しましたが、初戦敗退に終わり、結果的に西澤はキャリアを通じて一度も優勝を経験せぬままキャリアを終えることになりました。
また、西澤はこのころから徐々に体力面で衰えを見せるように。移籍直後に脾臓摘出手術を受けたことで、体力面が急速に劣路出していきました。結果的に清水への移籍は成功したとは言い難く、09年にはまたもセレッソ大阪へと復帰します。
現役ラストイヤーとなったこの年、西澤はもう限界でした。かつてのアクロバティックなゴールは激減し、18試合に出場して得点はわずかに1。体力の衰えが顕著で、何度も手術を経験した右足首はもう60代の足と変わらないレベルに。この年を最後に、西澤は現役を引退し、翌10年からはセレッソのアンバサダーに就任。長年の功績をたたえるような人事にファンは歓喜しました。