名前原田健二(ハラダケンジ)
生年月日1976年6月2日
日本
出身大阪府大阪市住吉区
プロフィール生光学園時代は、甲子園出場経験無し。三菱自動車水島に140キロを越える速球を武器とした左腕投手として頭角を現す。

1997年ドラフト3位で日本ハムに入団。いきなり一軍登板機会を得るも、大きく打ち込まれて2試合のみに終わる。ファームでも制球難に苦しむと、投球フォームをサイドスローに変更。すると2年目に24試合で防御率1.83と左のワンポイントとして活躍。2000年はチームトップの58試合に登板。

2001年、突如不調に陥ると、一軍登板無しに終わりオフに戦力外通告。2002年阪神にテスト入団するも、8試合に登板に終わり、再び解雇通告を受ける。千葉ロッテの入団テストに不合格となると現役引退を決意。2003年から阪神打撃投手に就任。

通算成績は92試合、0勝0敗1S、防御率4.02、56回0/3、37奪三振。生光学園高卒、173センチ、77キロ、左投左打

三菱自動車水島時代に、左の本格派投手として頭角を現す

原田健二は、1976年、大阪府大阪市で生まれます。そして、中高一貫の生光学園に進学するため、四国・徳島県へ渡りました。同県唯一の高校野球連盟加盟私立校において、集中して野球への取組みを開始します。しかし、1980年に創部仕立ての野球部はまだまだ歴史も浅く、有力選手たちも不在でした。夏の県予選では早々に敗れて、2年秋季大会のベスト8が高校生活最高位に終わります。甲子園には全く縁がなく、卒業後は三菱自動車水島へ入社して社会人野球の世界に入りました。

かつては松岡弘、八木裕なども所属した三菱自動車倉敷オーシャンズに所属すると、いきなりJABA徳山(スポニチ)大会を制します。左の本格派として、1995年、1997年の都市対抗野球大会出場にも貢献しました。本戦ではいずれも初戦敗退となりましたが、1997年は、社会人日本選手権岡山予選でMVPを獲得します。そして、プロからも注目される存在となりました。

即戦力として日本ハム入団も、制球難で期待に応えられず

1997年のドラフト会議では、12名の選手が逆指名で入団し、複数指名選手も2名に終わります。前々年パリーグトップのチーム防御率を記録した日本ハムファイターズは、前年一転してリーグ5位の防御率で、チームもBクラスに終わっていました。先発の軸不在に悩むチームは、6球団強豪の末、近畿大学の清水章夫を逆指名1位で獲得し、3位で原田健二を指名します。両左腕はともに即戦力として、1年目からの活躍が期待されました。

しかし、その期待はもろくも崩れ去ります。清水は5月に先発で初登板しましたが、勝利を挙げることなく、そこから故障のため2シーズンを棒に振ります。原田は、開幕第3戦にリリーフで初登板しましたが、1回4失点と大きく打ち込まれ、2戦目も失点してルーキーイヤーの登板はわずか2試合に終わりました。イースタンリーグでも26試合に登板しましたが、コントロールに苦しみ、防御率5.23と不本意な数字に終わります。すると制球難克服のため、サイドスロー転向に活路を求めました。

変則サイドスロー転向が功を奏し、3年目に58試合登板達成

変則気味のフォームを固めると、かつてのスピードを失いましたが、制球力を手に入れます。イースタンで防御率1点台の成績をキープさせると、再び一軍に昇格してリリーフで投げる機会を得ました。小笠原道大がバントをしない攻撃的2番に定着した打線は、リーグ随一となりましたが、先発の頭数が足りない日本ハムは苦しい戦いが続きます。そんな中、2年目の原田健二は左のワンポイントとして24試合に登板し、防御率1.83と素晴らしい成績を残しました。

2000年は、前年まで3年連続60試合登板していた下柳剛が、先発も兼務するようになり、原田の出番が激増します。チームトップで、キャリアハイの58試合に登板しましたが、役割は左打者殺しのままのため、イニング数は30回1/3にとどまりました。他球団の慣れもあって防御率を4.45と悪化させます。それでも、大きくリードしたときには試合の最後を締めることも任されて、プロ初セーブをマークしました。

飛躍が期待されるも、不調から抜け出せず入団4年で解雇通告

4年目の2001年も、貴重な変則左腕として期待されます。しかし、開幕一軍入りを逃すとファームでも結果が出ない日々が続きました。一軍も投打の歯車がかみ合わず開幕早々から最下位に沈みます。徐々に首位とのゲーム差は大きく開いていく中、原田健二はイースタンで少ないチャンスながらマウンドに立ちます。それでも、20試合、12回1/3を投げて、自責点13の防御率9.49というチーム最下位の数字では、一軍からお呼びがかかることはありませんでした。結局、最下位にあえぐチームに全く貢献することができず、同年オフに戦力外通告を受けます。まだ現役続行にこだわる原田は、入団テストを経て阪神タイガース入団が決まりました。

移籍した阪神でも活躍することができず、打撃投手に転身

阪神では、同タイプの遠山奬志が衰えを見せ始めていたため、ポスト遠山として期待されます。チームは、前年まで4年連続最下位と暗黒時代から脱却を図るため、新監督として星野仙一を抜擢しました。新天地で認められるために、キャンプから奮闘します。しかし、ストレートの球威はさらに落ちており、制球力抜群というタイプでもなかったため、開幕一軍を逃しました。

それでもウエスタンリーグで、防御率2点台と結果を残してチャンスを待ちます。星野阪神は、開幕7連勝するなど快調にスタートしましたが徐々に勢いを失いました。同年の原田の一軍登板はわずか8試合に終わり、アピールできません。一軍順位も4位に終わると、星野監督はオフに大胆な血の入れ替えを敢行しました。このタイミングで実に24人の選手がチームを去りましたが、原田もその一人となります。現役続行を目指して、千葉ロッテマリーンズの入団テストに臨みましたが不合格となり、現役引退を決意しました。

その後も阪神球団に残り打撃投手へ転身します。すると2003年、血の入れ替えによって生まれ変わったチームは快進撃を起こして18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げました。裏方になっていましたが自身初優勝を喜びます。その後も継続して阪神打撃投を務め、2017年は実に15年目に突入しました。

VICTORYアスリート名鑑

著者プロフィール VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。