名前井出竜也(イデタツヤ)
生年月日1971年4月19日
日本
出身山梨県南都留郡河口湖町(現:富士河口湖町)
プロフィール船津小3年で野球を始め、投手となる。吉田高校3年夏にエースとして甲子園に出場(3回戦敗退)。日本通運に入ると野手に転向し、都市対抗などで活躍。日本代表にも選出されて、ドラフトの目玉となる。

1993年ドラフトでは日本ハムを逆指名し2位で入団。2年目に一軍昇格して外野手レギュラーに定着。プロ4年目は、初のフル出場を達成して、ゴールデングラブ賞受賞。1999年シドニー五輪予選代表。

その後、怪我と不調に苦しみながらも、2002年に2度目のゴールデングラブ賞受賞。2003年、ヒルマン監督の構想から外れて同年オフに巨人にトレード移籍。

巨人では高いレギュラーの前に41試合出場に終わり、1年で戦力外通告。その後ダイエーに移籍すると、初年度こそ77試合出場するも、2006年現役引退。2007年からはソフトバンクコーチに就任。外野守備コーチ中心に、長らく常勝チームに貢献し、2017年は11年目を迎える。

通算成績は1,108試合、3,279打数828安打、79本塁打、336打点、105盗塁、打率.253。ゴールデングラブ賞2回。吉田高卒、180センチ、78キロ。右投右打

投手として甲子園に出場し、2完投勝利でベスト16進出

井出竜也は、山梨県南都留郡河口湖町(現:富士河口湖町)に生まれ、河口湖船津少年野球団で野球を始めます。河口湖南中を経て、吉田高校へ進学すると投手として活躍しました。2年秋にはエースとしてマウンドに立ち、山梨県大会で準優勝します。しかし、関東大会では初戦に完投負けして、翌春のセンバツ出場を逃しました。それでも3年最期の夏は、5年連続甲子園出場していた東海大甲府を3回戦で下し、そのまま県大会を制します。吉田高校として3度目となる聖地符を手にしました。

緊張する甲子園のマウンドでも実力を示します。初戦の小松島西戦、2回戦は前田智徳率いる熊本工相手に2試合連続完投で勝利しました。しかし、3回戦では倉敷商業高校に初回から立て続けに失点してマウンドを譲ります。結局1-11の大差で敗れてベスト8進出できませんでした。

社会人4年でNo.1野手に成長し、日本ハムを逆指名して入団

卒業後は社会人野球の日本通運に進み、投手から野手へ転向します。俊足に守備範囲の広さで屈指の外野手となり、社会人3年目の都市対抗では本塁打も放ちました。1993年には都市対抗準優勝に貢献する活躍を見せて、インターコンチネンタルカップ日本代表にも選出されます。同年秋のドラフト会議前には、社会人No.1野手の称号を得ていました。

数球団との交渉の末、日本ハムファイターズ逆指名を決めて2位での入団が決まります。即戦力としての入団でしたが、ルーキーイヤーは1年間ファームで過ごしました。2年目の1995年、チームの監督に上田利治が着任すると、一気に世代交代を進めます。開幕スタメンに名を連ねると、そのまま中堅手のレギュラーを奪いほぼフルに近い129試合に出場しました。

外野手レギュラーに定着し、初のゴールデングラブ賞受賞

1996年も、レギュラーとして122試合に出場すると、初めてシーズン100安打をクリアするなど前年の打率.228から.254に上昇させます。1997年には、さらにギアを挙げて135試合フル出場を達成してチームの顔の一人となりました。同じタイミングで一軍外野手に定着した上田佳範とは、鉄壁な右中間を組んで幾度も投手陣を助けます。シーズン後半からは、不動の1番打者として、打率.284、チームトップの27盗塁をマークしました。投手陣の不調、前年オフに獲得した落合博満の不調などで、チームは4位に沈みます。しかし、井出竜也は、自身初のゴールデングラブ賞を手にしました。

不調で出場機会を減らすも、シドニー五輪日本代表選出

1998年も、変わらず鉄壁な外野手としてチームに貢献します。しかし、打率.216と前年からかなり数字を落としました。出塁率も1割近く落としたこともあって、盗塁数も10個にとどまります。1999年、復活を期待されて1番中堅手として開幕スタメンに抜擢されました。しかし前年の不振から脱却できず、大きく出場機会を減少させます。結局、レギュラーを獲得して以降ワーストの60試合出場に留まりました。それでも11月にはシドニー五輪予選の日本代表に選出されます。5試合に出場して打率.333、4打点を残して日本の予選突破に貢献しました。

怪我を乗り越えて、5年ぶり2度目のゴールデングラブ賞

2000年からは、不調に加えて怪我との戦いが始まります。開幕戦で、味方選手と交錯して首の怪我を負うと1ヵ月半もの欠場を余儀なくされました。しかし、戦線復帰すると打撃成績が安定し、時には3番打者にも抜擢されます。同年は、外野守備は例年通り安定し、打撃でも13本塁打、56打点とキャリアハイの成績を残しました。

2001年は腰痛の状態が思わしくなく、開幕から欠場を続けます。5月からスタメンとして復帰するとレギュラーとして出場し続け、キャリアハイの打率.288をマークしました。外野守備においては、守備率1.000という無失策で乗り切ります。怪我により2年連続で100試合程度の出場に終わりましたが、能力の高さを見せ付けました。2002年、久しぶりに体調万全で開幕を迎えると、120試合に出場します。再び打撃不振に陥り、規定打席到達は達成できませんでしたが、5年ぶり2度目のゴールデングラブ賞を受賞しました。

晩年は2チームを渡り歩くも、復活することなく現役引退

2003年、トレイ・ヒルマンが日本ハム監督に着任すると一気に旗色が変わります。キャンプ、オープン戦と主力として扱われず、シーズン開幕してもファーム暮らしが続きました。イースタンで3割近い打率を残すと、5月下旬にようやく一軍昇格します。それでも、82試合の出場に留まり、先発出場数もかなり抑えられました。

ヒルマン監督の構想から外れたため、オフに入来祐作との交換トレードで巨人に移籍します。しかし、ローズ、高橋由伸、清水隆行という絶対的レギュラーの存在が大きく41試合の出場に終わりました。するとオフには戦力外通告を受け、福岡ダイエーホークスへ移籍します。巨人時代と異なり、先発出場数を増やしましたが、打率1割台と好結果を残せませんでした。35歳で迎えた2006年シーズンは、ルーキーイヤー以来の一軍出場ゼロに終わり、現役引退を決意します。その後も、ホークスに残留してコーチに転身すると、外野守備走塁コーチを中心に長年チームに貢献し続けました。2017年は、早くもコーチ生活11年目に突入しています。


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