文=手嶋真彦
北九州と釜石の新スタジアムをデザイン
未来のスタジアムは、どう変わっていくのか――。
スポーツ施設のデザインを数多く手掛ける株式会社「梓設計」を、そんなテーマで取材した。一級建築士などの資格取得者が社員584人のうち350人近くを占めるエキスパート集団であり、新国立競技場の設計にも携わるなど、日本のスポーツビジネスを縁の下から支える注目企業だ。
予想できるひとつの傾向は、よりシビアな“制約”との戦いだ。今後増えていくはずなのが、スタジアム自体か、その周辺にイベント開催日以外も稼働する商業施設を組み込み、地域活性化のエンジンとする取り組みだろう。普段から人々で賑わう求心力たりえるかの成否を左右するのはアクセスの良し悪しだが、街中に巨大な建造物を新設するとなると用地を自由に選べるわけではない。 そうした制約との厳しい戦いを強いられたのが、2月18日にオープンしたばかりの「ミクニワールドスタジアム北九州」(福岡県北九州市)だ。
新幹線停車駅のJR小倉駅から徒歩10分という利便性を重視したロケーションならではで、敷地は狭く、しかも一方は海に面している。デザインを担当した梓設計の古川学は、それらの制約を克服しながら、地域の「まちづくり」に貢献できる施設を作らなければならなかった。 先々の“運用”を見越した設計も、これからはよりいっそう求められる。
日本で開催する2019年ラグビーワールドカップで試合会場のひとつとなる岩手県釜石市の「釜石鵜住居復興スタジアム(仮称)」は、大会後の維持管理費を抑えるために、観客席1万6000席の6割を超える1万席を仮設のスタンドで対応する。デザインを担当した梓設計の石成雅人は、「いかに手を加えずに」魅力的な施設を作るかに頭を悩ませた。
未来に繋がる“発想力”と“想像力”
街中の「北九州」と郊外の「釜石」――。その意味では対照的な両施設を設計した古川と石成の創意工夫は、どちらも未来に繋がっている。これからのスタジアムに不可欠なのは、制約を逆手に取れる“発想力”や、さまざまな運用のかたちを事前にイメージできる“想像力”なのかもしれない。
釜石の新スタジアムを「なるべく自然のままに整備している」(石成)理由は、建設費用とランニングコストの削減だけではない。
「もしかすると、別の大きな大会をいずれ招致するかもしれません。仮設のスタンドをうまく利用できれば、施設の雰囲気を大会に合わせて変えていけます」
フレキシブルなスタジアムという発想は、例えばJリーグへの新規参入を目指す新興クラブの施設にも応用できるのではないか。石成はそんな私案も持っている。
「仮設を活用しながら、クラブの成長に合わせて常設のスタンドを順次整備していく考え方です」
テクノロジーは日進月歩で、今の最新鋭は5年も経てば古びてしまいかねない。映像や音響、通信環境、顔や指紋などの認証システム……。融通の利く設計のためなら、石成や古川はあらゆる分野の専門家の提案や見解にそれこそ身を乗り出して耳を傾ける。スタジアムの可変性次第で、さまざまな運用が可能になるからだ。ちなみに施設完成後の修正が困難なのは、人や物の動線だそうだ。選手や観客がスムーズに移動できるかは、根本のデザインに大きく依存する。多くの場合、動線の不具合は容易に解消できず、だからこそ設計者が神経を擦り減らしているわけだ。
敷地が狭い北九州の新スタジアムは、その制約をうまく逆手に取った。多層構造のスタンドの最大勾配は人が恐怖を感じない限界近くの37度で、1階席の最前列からピッチまでの8メートルはJリーグの規定を満たした最短距離だ。グラウンドの周囲に陸上トラックはなく、臨場感や一体感はおそらく国内最高水準となる。その一方で、海に隣接するバックスタンドはあえて低層とした。東西南北の東側だけは視界を遮るものがなきに等しく、その先には海が広がる。制約を利用した、驚きの景観だ。
釜石の場合は、山と川に挟まれたロケーションをむしろアドバンテージと捉えた。自然の地形を活かした設計で、川沿いの潤いと山側の緑をどちらも楽しめる。
顧客満足度のより高い施設をデザインするための国内外の視察も、石成たちにとっては貴重な時間だ。古川が感銘を受けたひとつが、NBAの強豪ゴールデンステート・ウォリアーズが本拠地としているオラクル・アリーナだった。趣向を凝らしたワクワクさせる演出があり、雰囲気が素晴らしかった。
設計士が発想力や想像力を駆使するのは、制約の克服や多様な運用を可能とするためだけではない。石成が意識しているのは、「利用者をどう楽しませるか」。パフォーマンスや演出といったソフトに加え、施設そのもので来場者をワクワクさせるスタジアムが増えれば、日本のスポーツビジネスの可能性は大きく広がる。海とその先の山が借景のように映える北九州スタジアムは、そのひとつの先駆けとなるだろう。
未来のスタジアムも、使うのは人なのだ。(文中敬称略)