鈴木隆行について

名前鈴木隆行(スズキタカユキ)
生年月日1976年6月5日
日本
出身茨城県
プロフィール茨城県の泉丘中時代から注目され始め、2年生の時には関東選抜として全日本選抜中学生大会に出場。日立工時代は1年生の時国体で3位に入り、日本ユース代表も経験。

1995年鹿島アントラーズに入団。1996年Jリーグにデビュー。1997年ブラジルのCFZ・ド・リオでプレー。1998年ジェフ市原に期限付き移籍。1999年再びCFZ、2000年川崎フロンターレにレンタル移籍。同年8月鹿島アントラーズに復帰、同年ナビスコ杯で優勝しニューヒーロー賞を受賞。2001年2月日本代表候補に初選出。同年4月対スペイン戦で国際Aマッチ初出場。同年6月FIFAコンフェデレーションズカップのカメルーン戦では初先発し2得点を挙げる。2002年、日韓W杯の初戦ベルギー戦では値千金の同点ゴールをあげて、日本初の勝ち点獲得に貢献。

W杯での活躍が認められて、2002年からはベルギーでプレー。その後も、セルビア、アメリカ、日本とチームを渡り歩き、2011年からは地元J2の水戸ホーリーホックでプレー。2015年、ジェフユナイテッド市原・千葉で最後の現役生活を過ごし同年引退。現在は指導者としてS級ライセンス取得し、Guerrero Football Academyでテクニカルアドバイザーを務めている。

国際Aマッチ55試合11得点。日立工業高等学校卒、182cm、75kg。

高卒で鹿島アントラーズに入団するも、出場機会に恵まれず

鈴木隆行は茨城県に生まれ、実業団でサッカー選手だった父に影響されてサッカーを始めました。その父から指導を受けると、泉丘中学時代には早くも地元注目の選手に成長します。そして進学した日立工業高等学校では、1年生からMFのレギュラーを奪い、同年の国体3位に大きく貢献しました。チームには指導者が不在であったため、鈴木自身が練習メニューを作るほど中心的存在で、2年時にはすでに地元の鹿島アントラーズから注目されていました。そして高校3年時には主将も任され、同年代の日本代表にも名を連ねました。

高校卒業後の1995年、鹿島アントラーズに入団しますが、ここで大きな挫折を味わいます。高卒で体もできておらず、チームには代表クラスが集結していたため技術も一切通用しません。結局、入団して2年間で出場はわずか1試合に留まりプレーを披露することすらできませんでした。

ブラジルへのレンタル移籍で、地獄を味わいながらも結果を出す

当時の鹿島アントラーズは、ジーコが総監督を務めており、伸び悩む鈴木隆行にブラジル留学を提案します。そしてジーコ自身が主宰していたリオデジャネイロのサッカークラブ・CFZ・ド・リオへの期限付き移籍が決定しました。ブラジルを転機の場所にしようと、サッカーに打ち込みますが、日本と違って環境は劣悪でした。しかし地獄のような日々を過ごしながらも、テクニックを磨くと精神面も同時に鍛えられます。主力としてプレーするようになると、21試合で7得点をマークし、チームの2部昇格に貢献しました。

レンタル期間の半年を終えて帰国すると、鹿島アントラーズに復帰します。海外での成果を出したい鈴木でしたが、まだまだチームのレベルは高く戦力になれませんでした。すると1998年シーズン途中、ジェフユナイテッド市原への期限付き移籍が発表されます。7試合出場でノーゴールに終わりましたが、J2との入れ替え戦では値千金のゴールを決めました。なんとかチームのJ1残留に貢献した鈴木は、1999年2月からはさらなる成長の機会を求め、再び苛酷な環境だったブラジルへ復帰を決断しました。

2度のブラジル留学を経てチャンスをつかむと、鹿島の3冠に貢献

CFZ・ド・リオで再びプレーするようになりましたが、怪我を負っていた為、2度目は不完全燃焼に終わります。手術を受けるため契約途中での帰国を余儀なくされ、2000年シーズンは川崎フロンターレでレンタル選手としてプレーするも、大きな活躍はできませんでした。

しかし、鈴木隆行にようやく大きなチャンスがやってきます。同年はシドニーオリンピックが開催され、日本代表として平瀬智行、柳沢敦という二人の鹿島フォワードが選出されました。そのため、ストライカーの穴埋めに追われ、伸び悩んでいた鈴木に声がかかったのでした。千載一遇で得たチャンスを手にすると、鈴木はそのチャンスをものにします。鹿島復帰戦で即ゴールを決めると、リーグ戦で2得点、ナビスコカップで3得点、天皇杯で2得点と、復帰15試合で実に7ゴールを量産します。鹿島は、鈴木加入後の後半戦を負け知らずで過ごし、Jリーグ史上初の3冠(リーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯)を達成しました。

2002年、日本のW杯初勝ち点獲得となった貴重な同点ゴール

レベルの高い鹿島アントラーズでレギュラーをつかんだ鈴木隆行は、2001年日本代表にも初召集されました。同年のFIFAコンフェデレーションズカップのカメルーン戦で、初スタメンに抜擢されると、2ゴールをあげて一気に日本のストライカーへと定着します。海外で培ったフィジカルコンタクトの強さもここで花が咲き、2002年ワールドカップ日韓大会のメンバーにも選出されました。

さらに鈴木に追い風が吹きます。日本代表のエースストライカーは高原直泰が務めていましたが、直前にエコノミー症候群を発症し出場を断念。そのため、鈴木と柳沢敦という鹿島のツートップで大会初戦に挑みました。2度目のワールドカップ出場の日本はベルギーと対戦し、前半戦終了間際に先制ゴールを奪われます。しかし試合再開後、鈴木は小野伸二が出した厳しいパスに対し、諦めずに走りつま先で触れてゴール。取られた直後に同点に追いつくゴールは、同大会の日本初ゴールとなり、日本史上初のW杯勝ち点獲得につながりました。まさに泥臭い鈴木を象徴するようなゴールで、勢いに乗った日本は初のグループリーグ突破という大目標を達成しました。

海外4カ国目の挑戦と、水戸では復興を願い無報酬契約

W杯後、鈴木隆行は、日本と海外とで移籍を繰り返します。ベルギー1部の名門・KRCヘンクへのレンタル移籍が決定すると、そこから2シーズンをヘンク、ヒュースデン=ゾルダーのベルギー2チームで過ごし、UEFAチャンピオンズリーグも経験します。2004年、鹿島に復帰すると、自身初のハットトリックを達成し、日本代表でも2006 FIFAワールドカップ一次予選で3戦連続ゴールと流石の活躍を披露しました。しかしW杯本選では若手の台頭もあり、最終メンバー選出は見送られました。

そこからも鈴木は、2006年にレッドスター・ベオグラード(セルビア)、2007年は横浜Fマリノス、2008年からはポートランド・ティンバーズ(アメリカ)と若い頃のブラジルから数えて海外4カ国を経験します。アメリカでは、自身初めて同チームで3シーズンを過ごし、4得点に終わりましたが、77試合に出場しました。

2011年以降、アメリカに残留するという選択肢もありましたが、鈴木が次にプレーする地に選んだのは、J2の水戸ホーリ-ホックでした。地元チームを選択し、まさかの無報酬というアマチュア契約で久々のJリーグ復帰を果たします。実は無報酬というのは、同年3月に襲った大震災のため、経営自体も苦しいチームに対する鈴木の配慮でした。故郷に錦を飾り、2013年シーズンには自身初の二桁得点をクリアするなど、4シーズンで24得点をマークしました。しかし2014年シーズン終了後、サッカー選手としてはかなりベテランの域に入り、戦力外通告を受けて退団が決定しました。

21年間の現役生活を引退すると、豊富な経験を生かした指導者へ

2015年、鈴木隆行はジェフユナイテッド市原・千葉へ移籍し、選手生活最後を過ごします。しかしわずか2試合の出場に留まり、21年間の現役生活についにピリオドを打ちました。現役時代、海外含めて10度以上の移籍を経験し、試合に出場できない辛さも人一倍味わいました。そうした経験を生かすべく、引退後すぐに指導者への道を歩み始めています。特に海外で活躍するために、個の力は不可欠だと感じ、「Guerrero Football Academy」のテクニカルアドバイザーに就任して自ら指導に当たっています。


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