三浦大輔について
名前 | 三浦大輔(ミウラダイスケ) |
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生年月日 | 1973年12月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 奈良県 |
プロフィール | 真菅北小3年で真北リトルに入り、三塁手。北大和シニアで中3の時投手に転向。高田商では2年でエースとなり、1991年春の県大会で3試合連続完封、夏は県大会決勝まで進出。
1991年ドラフト6位で大洋(現・横浜)に入団。1993年9月対広島戦でプロ初勝利を完封で飾る。1997年に初の二桁勝利を挙げると、1998年には38年部厘日本一に貢献する12勝をマーク。以後は長らく低迷するチームにおいてエースとして働きました。2008年オフにFA宣言するも、チーム残留を決断。2009年を最後に二桁勝利の達成は出来ませんでしたが、晩年は一軍投手コーチ兼任として2016年までマウンドにあがった。抜群のコントロールと怪我の少ない体で、23年連続勝利(日本タイ記録)、24年連続安打(歴代4位タイ)などを記録。25年間を横浜一筋で過ごしたフランチャイズプレイヤー。 通算成績は、535試合、172勝184敗、防御率3.60、3,276回、2,481奪三振。右投右打、最高勝率1回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回。高田商業卒、右投右打、183cm、84kg |
甲子園出場を逃すも、横浜大洋からドラフト6位で指名される
三浦大輔は奈良県で生まれましたが、幼少期を父の実家である大阪府玉造で過ごしたことで、阪神タイガースとの並々ならぬ縁が作られました。そもそも父は大の野球ファンであり、実家は花屋を営んでいました。そして近所には岡田彰布(元阪神監督)の実家があったことから、同氏の講演会役員を務めていました。そうした縁で、岡田氏は三浦少年と顔見知りとなり、その野球センスには一目置いていました。
奈良に移り住みリトルリーグで頭角を現すと、高田商業高校に進学します。2年生からエースとなると3年春には県大会で準優勝し、最後の夏は甲子園出場も大きく期待されました。順調に勝ち進み、春に敗れた天理高校と再び決勝で合間見えます。しかし、前年夏は甲子園で全国優勝し、同年もエース谷口功一を擁していたこともあって当時の天理は強敵でした。高田商業は、善戦しましたが1-3と敗れ、甲子園には届きませんでした。それでも、1991年ドラフト会議で横浜大洋ホエールズからドラフト6位指名され入団します。甲子園出場を争った谷口は、ドラフト1位で巨人に指名されましたがプロ0勝に終わりました。
1998年には、横浜べイスターズ38年ぶりの日本一に貢献
2年目にプロ初勝利をあげ、チームの先発投手として育成されると、4年目からはローテーション投手として定着します。1997年には怒涛の9連勝など初の二桁勝利をあげ、勝率.769で最高勝率のタイトルも獲得します。そして同年は、入団以来の5年連続Bクラスから抜け出す2位と躍進しました。
そして迎えた1998年、三浦大輔は背番号18を与えられると、終盤に戦線離脱するもキャリアハイの12勝をマークします。前年で自信を得たチームは、強力打線とクローザー佐々木主浩が中心となり38年ぶりにセ・リーグを制しました。日本シリーズでも、自身は敗戦投手になりましたが、4勝2敗で西武ライオンズを退け、初めて日本一の美酒を味わいました。
「ハマの番長」は低迷するチームでエースとして孤軍奮闘
1998年に日本一を達成した先発ローテーション投手たちが軒並み不調になる中、三浦大輔はエースへと成長していきます。1999年は初の開幕投手も務め9勝に留まりましたが、翌年から2年連続11勝と安定した成績を残し、チームも3年連続3位とAクラスをキープしていました。
しかし、2001年オフに正捕手だった谷繁元信がFA宣言をして中日に移籍すると、一気にチームは低迷し長い暗黒時代に突入します。自身も、2002年には故障して手術を受けるなど勝利数は一桁どころか半減していました。ようやく故障も癒えた2004年にはシーズン6勝に終わるも、アテネ五輪日本代表に選出され、日本の銅メダル獲得に貢献します。そして翌2005年には完全復活を見せました。リーグ最多の投球回数214回2/3を投げて4年ぶりの二桁勝利となる12勝をマークします。さらに最優秀防御率、最多奪三振と投手2タイトルを奪い、チームを3年連続の最下位から一気に3位まで押し上げました。10完投(うち2完封)という数字は投手分業時代に突出した数字です。そして若い頃からトレードマークのリーゼント髪型から、ハマの番長としてチームの顔となっていました。
阪神へのFA移籍が取りざたされるも、横浜愛を貫き残留
エースの活躍はあっても、2006年から3年間オールBクラスで最下位も2度と低迷期を抜け出せません。自身も何度も開幕投手を務めましたが、一度も勝利できませんでした(結局7連敗)。2008年には、内川聖一が首位打者、村田修一が本塁打王となるなど打撃陣はリーグ屈指となっていましたが、投手陣は12球団ワーストにまで落ちていました。そして同年で6年契約が終了した三浦大輔は、ついにFA宣言します。すると阪神がさっそく獲得に名乗りを上げて、横浜よりも好条件を提示しました。幼い頃の阪神との縁もあり、相当心が揺れることになります。ただ一方でその当時阪神を率いていた岡田監督は歴史的な大逆転を喫し、同年限りで勇退が決定していました。ハマの番長は、横浜を愛する気持ち、そして強いチームを倒して優勝したいとの想いが勝り、最終的には横浜残留という選択をしました。
初のクライマックスシリーズへの出場、そして優勝を目指し、投手陣をリードしましたが戦力の低下は止まりません。有力選手はFA権を行使し、次々と他チームへと去っていきました。2009年こそ11勝と自身7度目の二桁勝利をマークしましたが、チームは最下位に終わります。さらに翌年以降は自身の成績も上げられず、最下位街道を歩んでいました。ついには球団売却話も持ち上がり、2012年からはチーム名が横浜DeNAベイスターズとなりました。
選手生活25年全てを横浜で過ごし、ついに現役引退
球団がDeNAとして生まれ変わり、新監督に明るいキャラクターの中畑清が着任します。戦力が変わったわけではないため、当初もBクラスから抜け出せませんでしたが、若い戦力の底上げや、ファンサービスもあって観客動員は増加していきます。三浦大輔も超ベテランの域に入っていた為、2014年からは投手コーチも兼任しながらも、マウンドに上がり続けました。
すると2015年は前半戦を首位で折り返すなど、チームは確実に成長していました。そして2016年、当面の目標としていた初のクライマックスシリーズ出場を決めます。しかし同時に、三浦の出番は極端に少なくなっていました。戦力が整い上位争いできるチームに変わり、横浜スタジアムも満員になったのを確認すると、同年終盤に現役引退を表明しました。すると球団はこの功労者に対して、本拠地最終戦を引退試合として先発に起用します。
すでに投手ながら24年連続安打という記録を達成(ギネス世界記録に認定)しており、この試合で24年連続勝利という大記録達成が期待されました。またこの試合は、2001年以来の勝率5割がかかった大事な試合でもありました。しかし力の衰えが激しい為、早い回から失点を繰り返しました。10失点しても降板させず、チームの勝率5割よりも背番号18の最後の舞台を優先させたのでした。しかし試合には敗れ、ついに選手生活が終焉を迎えます。入団以来、横浜一筋で25年を過ごし、唯一、1998年の優勝を知る男がついにユニフォームを脱ぎました。通算成績は172勝184敗という弱小チームの性でもある負け越しに終わりましたが、背番号18は準永久欠番に指定されました。