松坂大輔について

名前松坂大輔(マツザカダイスケ)
生年月日1980年9月13日
日本
出身東京都
プロフィール東京・江戸川南リトル、同シニア時代から全国大会を経験。

横浜高に進学後、エースとして活躍し、1997年秋神奈川県大会、秋季関東大会、明治神宮大会で優勝。1998年選抜高校野球に出場、同校を25年ぶりの優勝へ導く。春の県大会、関東大会も制し、夏も甲子園に出場。準々決勝・対PL学園戦では延長17回250球を投げ抜き、決勝・対京都成章戦はノーヒットノーランを達成、春夏連覇。同年国体の決勝では京都成章を完投で破り、同校は史上初の全国3冠、公式戦44連勝(無敗)。また、アジアAAA選手権優勝にも貢献した。同年11月のドラフト会議では3球団が1位指名し、西武に入団。

1999年4月対日ハム戦で公式戦初登板、8回132球を投げ、5安打2失点で初勝利。7月オールスターのファン投票に投手最多の96万票で選出され、第1戦に先発登板する。同年16勝をあげ最多勝利投手となり、高卒新人投手としては堀内恒夫以来33年ぶりの新人王、高卒新人初のベストナインを受賞。同年12月金額、アップ額、アップ率ともに新人としては史上最高の7000万円で契約更改。2000年プロ選手から初めてシドニー五輪代表に選ばれ、予選リーグの米国戦、韓国戦、3位決定戦の韓国戦に登板するが、いずれも惜敗し、4位。同年14勝をあげ2年連続最多勝利投手となり、史上最年少の21歳で年俸が1億円に。2001年15勝をあげ3年連続最多勝利投手となる。高卒1年目からの3年連続最多勝は史上初。同年沢村賞受賞。ベストナイン3回。150キロ台の速球に加え、高速スライダーとカーブを使った緩急自在の投球に定評がある。妻は元日本テレビアナウンサーの柴田倫世。

NPB時代の通算成績(2016年まで)は、205試合、108勝60敗1S、防御率2.96、1,403回2/3、1,357奪三振。最多勝3回、最多奪三振4回、最優秀防御率2回、新人王、沢村賞2回、MLB時代の通算成績は158試合、56勝43敗1S、3ホールド、防御率4.45、790回1/3、720奪三振。右投右打、183cm、83kg

天才野球少年を、怪物へと生まれ変わらせた悔しい敗戦

母親の実家で1980年に生を受けた松坂大輔は、同年甲子園を一斉風靡したアイドル投手・荒木大輔にあやかって、その名前が名付けられました。5歳から剣道をはじめ主に精神面が鍛えられると、いよいよ小学3年生から野球を始めました。すると早くもリトルリーグでエースとして頭角を現し、江戸川南シニア時代には世界大会も経験しました。

その後は横浜高校に進学して甲子園を目指しましたが、天才少年の練習嫌いは有名で、「サボリのマツ」という有難くないニックネームをもらっていました。しかしこの才能に尋常ならぬ努力が加わるきっかけを与えた大きな敗戦を経験します。自身が2年生時、夏の甲子園出場を賭けた県大会には当然のようにエースとしてマウンドに上がっていました。3年生の上地雄輔(現:俳優)とバッテリーを組み準決勝に臨むと、同点の9回、自らの暴投でサヨナラ負けを喫します。一瞬で3年生最後の夢が消えるとその日から猛練習が始まりました。

「平成の怪物」として、甲子園春夏連覇含めた公式戦44戦全勝

3年春に自身初めて甲子園に登場すると、「平成の怪物」と称されていた実力を存分に発揮します。全5試合に先発登板すると、3完封含むオール5完投に防御率0.80という完璧な成績で全国制覇を達成しました。そして夏の県大会も制し、春夏連続出場すると次々と強豪をなぎ倒していきます。2回戦では、前試合でノーヒットノーランを達成した杉内俊哉(当時・鹿児島実)から自ら本塁打を放つなど完封勝利をあげました。PL学園との準々決勝では、延長17回を250球完投という甲子園史上に残る伝説の試合を制します。準決勝ではさすがに先発マウンドに上がれず0-6と劣勢となりましたが、徐々に盛り返すと最後に自身もマウンドに上がりナインを鼓舞します。まさに興奮のるつぼと化し奇跡の逆転サヨナラ勝ちで決勝戦までたどりつきました。

そして、松坂大輔は連覇を決める舞台で怪物の名をさらに強固にしました。疲れが残り大きな緊張に支配されるはずのマウンドで、1本のヒットも許さない圧巻のピッチングを見せていきます。終わってみれば決勝戦では史上2人目となるノーヒットノーランを達成し、見事に連覇を達成しました。さらにその後の国体も制覇し、史上初の高校3冠を達成し公式戦44連勝で高校生活を締めくくりました。

高卒1年目から3年連続最多勝など、西武のエースに成長

超高校級右腕として大注目となったドラフト会議では、3球団がドラフト1位指名で競合し西武ライオンズへの入団が決まります。高卒ルーキーがいきなりプロで活躍するケースはごく稀ですが、松坂大輔は鮮烈なデビューを飾ります。初先発マウンドに上がると、挨拶代わりの155キロのストレートで世間を驚かせてプロ初勝利をあげました。世間の大注目を浴びたイチローとの初対戦では、3打席連続三振でさらにスターダムにのし上がります。ルーキーイヤーに大活躍を見せて、新人王に最多勝と即戦力右腕の実力を証明しました。2年目には早くも開幕投手を任され、西武のエースへと成長していきます。防御率が悪化するも3年連続最多勝に2年連続最多奪三振を達成し、3年目の2001年には沢村賞にも輝きました。

4年目こそ故障して長期離脱しましたが、5年目以降は再びエースとして4年連続二桁勝利と安定して好成績を残しました。しかし絶対的エースを擁した西武でも、この間のリーグ優勝は2度に留まり、日本シリーズを制したのも2004年のみに終わります。ただこの時は、2試合に先発して1勝1敗、さらに優勝を決める第7戦ではリリーフ登板するなどフル回転して大貢献しました。

アテネ五輪銅メダル、第1回WBC優勝と国際大会でも大活躍

松坂大輔は国際大会でも、その名を轟かせています。2004年にはアテネ五輪に出場し1次リーグでは当時最強のキューバ戦に先発して勝利に貢献しました。準決勝では8回1失点の好投も敗れ金メダルを逃すも、日本の銅メダル獲得の立役者となりました。

そして2006年、第1回WBCでは日本のエースとして、1次リーグ台湾戦、2次リーグメキシコ戦、決勝のキューバ戦に先発登板し全勝、日本の優勝に貢献します。MVPならびにベストナインにも選出され、世界的にもその名と実力が注目される大きなきっかけとしました。

メジャー移籍すると、初年度にワールドチャンピオンリングを獲得

©Getty Images

西武8年間で108勝をあげた松坂大輔は、2006年オフ、ポスティングシステムを行使してのメジャー移籍を容認されました。するとボストン・レッドソックスが破格の金額で落札し、海外挑戦が始まります。日本の怪物は、メジャー初登板で7回1失点10奪三振と満点の内容で初勝利を飾ります。さすがに、強打者揃いの新天地では被本塁打も多くなりましたが、1年目から15勝を挙げてチームの地区優勝に貢献しました。その後プレーオフも勝ち上がると、ワールドシリーズに進出し、日本人として初先発ならびに初勝利とまさにトントン拍子でした。チームは一気に4連勝を飾り、メジャー挑戦初年度にしてワールドチャンピオンリングを手にしました。2年目も好調を維持し、いきなり開幕8連勝を飾ります。一度戦線離脱こそしましたが、日本人シーズン最多勝となる18勝をマークし、敗戦数はわずか3つでした。

第2回WBC連覇を飾るも、負った故障に長年苦しむ

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2009年には、シーズン前に2大会連続でWBCに出場します。前回に続いて先発の大黒柱として活躍し、3戦3勝をあげて日本の連覇に大きく貢献しました。2大会連続でMVPに輝きましたが、松坂大輔は同大会で故障を負ってしまい、それはその後の野球人生を大きく左右することになってしまいました。

メジャー2年間で33勝を挙げていましたが、股関節、右肘、右肩など度重なる故障に悩まされ、フルシーズンで戦えなくなります。2011年には、ついにトミー・ジョン手術を受けて右肘にメスをいれました。翌年復帰するも、メジャー3年目からの4年間でわずか17勝に終わり、2012年でレッドソックスとの契約が延長されることはありませんでした。2013年には、インディアンスとのマイナー契約を経て、ニューヨーク・メッツとのメジャー契約を勝ち取ります。しかし2年間で6勝に留まり、先発としてマウンドに上がることもなくなっていました。

日本球界に復帰するも、2年で登板はわずか1度と衰えを隠せず

松坂大輔は、メジャー挑戦を8年間56勝でピリオドを打ち、2015年からは9年ぶりに日本球界復帰を決断します。古巣の西武ではなく、福岡ソフトバンクホークスと3年12億円という大型契約での復帰も世間をざわつかせました。しかし、2年間で一軍登板は1試合1イニングだけと怪我からの復帰は全く果たせていません。

2017年は契約終了年であり、当然結果が求められます。36歳となる同シーズン、自身も松坂世代と呼ばれた同年代の選手たちも、プロ野球人生の岐路に立っています。世代をリードする代表者として、意地を見せる活躍を見せられるか大いに期待されています。


VictorySportsNews編集部